夢の仕業

 

(今日のコトバ)

 

どれだけ現実を積み上げても

夢にはならないが、

一つの夢があれば、

現実は夢として動き出す。

 

 

何も夢がない。

何も目的がない。

そんな気持ちで生きるほど、

つまらないものはない。

ただ、いつもの暮らしを

漠然としていると、

夢はつくりづらい。

日常という時間が

流れていくだけになってしまう。

だが、こうも考えられる。

一つの夢や目的をつくれば、

人生がその夢や目的に向かって

動き出す。

いまやるべきこと、

これからやるべきことが

明快になる。

生きる循環が

良い方向に向かう。

ワクワクしたり、

面白くなったり、

楽しくなったりしてくる。

つまりは、

一つの夢の仕業によって、

人生が躍動してくる。

どちらがいいではない。

夢がない生き方があってもいい。

もし、その生き方に反対なら、

夢を一つくってしまえばいい。

それだけで、

人生が大きく変わる。

少なくとも、

つまらない人生から

お別れできるはずだ。

 

 

平凡な日々は至福

 

(今日のコトバ)

 

健康で

少しお金が余っていて、

平凡な暮らしができることを

至福という。

 

 

何も特別なことを望まない。

日常が平穏無事であること。

そこさえクリアできれば、

人は幸福であるといっていい。

もっというと、

平凡な日常は至福の時を

過ごしていっていい。

だが、

人間は単調な日々を良しとせず、

刺激を求めて

特別なことにトライする。

そこで思わぬ出来事と遭遇し、

不測の事態が起こる。

単調な日々ばかりでは

面白くないから、

仕方ない部分もある。

ただ、その時、

平凡な日々は

至福であったことを

忘れてはいけない。

みんなが苦しまずに

笑って過ごせる時間。

人生の時間を

平凡で彩れたら、

それは素晴らしいことなのだ。

 

憎しみを忘れる方法

 

(今日のコトバ)

 

憎しみは、

引き算を知らない。

 

 

一度、憎しみ出すと、

とどまることを知らない。

内心から嫌な思いが熱くなる。

その憎しみは、

人生にとって

あまり良い影響を与えない。

憎しみを抱えて生きると、

自分でもワルい方へ

考えがちになる。

罪なことを考えることさえある。

本当は、

憎しまないで生きられれば、

そちらの方がいい。

では、どうすれば

憎まずにすむか。

憎しみの度合いにもよるが、

憎んだ人、憎んだ行為を

忘れてしまうことが大切。

仮に、憎しみによる

復讐を考えているなら、

相手に反撃するのではなく、

自分の世界で努力して、

自分が成功すること。

自分が幸せになること。

それがうまくいけば、

憎しみはじょじょに

忘れていく。

とにかく、

自分の目指した世界に没頭して

幸せになる。

憎しみを忘れる一番の方法だ。

理解できるのは、ある程度まで

 

(今日のコトバ)

 

理解半分。誤解半分。

それが人間を知るということ。

 

 

相手のことを知りたい。

好きな相手でも、

仕事をする相手でも、

尊敬する相手でも,

そう思う。

いろいろ考えて、

いろいろ調べて、

いろいろ話して、

理解を深めた。

ただ、どれだけ

コミュニケーションをとっても、

本当の姿はわからない。

長く付き合ってきたのに、

「そんな人間だとは思わなかった」

と思うことさえある。

きっと、

人間を完全に理解することは

難しいのだ。

だとしたら、

こんな考えはどうだろう。

理解半分。誤解半分。

相手を知ることはそこまで。

それ以上は、

本人しかわからない。

否、本人も

わからないかもしれない。

人間を理解できるのは、

ある程度まで。

ほどほどに理解できればOK。

それぐらいの気持ちで

人と付き合っていこう。

 

人見知りとは、心の距離を縮める人

 

(今日のコトバ)

 

人見知りとは、

人の顔より

人の心に興味のある人。

 

 

「人見知りだから、、」

と自分を紹介する人がいる。

意外に多い気もするが、

そう紹介する人に

ある傾向があることに気づく。

それは、対人の顔を見つめたり、

コミュニケーションをとるのは

上手ではないが、

心や気持ちを

深く考える人であるということ。

フレンドリーに笑顔をつくって、

関係の距離を

縮めることはしないが、

心の距離、気持ちの距離を

縮めようとする。

そういう人に人見知りが多い。

いい、ワルいではない。

人見知りでなく、

フレンドリーに

付き合ってくれる人は

ありがたいし、

人見知りだけど、

人の気持ちを汲んでくれる人も

嬉しい。

人見知りも、

人見知りでない人も、

大切にして生きていこう。

 

 

何もない人なんていない

 

(今日のコトバ)

 

あれこれいっぱい

抱えているのに、

何もないような顔をして

生きるのが得意な人間。

 

 

朝、出社したら挨拶をする。

あたりまえのように

PCの電源をオンにして、

普通に仕事を始める。

会議も発言がなければ、

資料に目を通すだけ。

昼食になれば、

笑顔でいきつけの定食屋へ行く。

ルーティンのような一日。

そこに大きな感情の起伏はない。

もちろん、

ボタンの掛け違いのようなことで、

怒る人や騒ぐ人もいる。

だが、それも一部だ。

総じて、

みんな何もないような顔をして

社会での生活をする。

だが、本当に何もないのだろうか。

持病がある人がいる。

家族に問題のある人がいる。

近所とトラブルを

抱えている人がいる。

使用しているものが

故障している場合がある。

それ以外にも、

困っていることはあるだろう。

もしかすると、

何もない人など

皆無なのかもしれない。

そう考えると、

何もない顔をして生きる人は

どこかで頑張っている。

自分の弱みを見せないように

自分を律している。

だからこそ、

人が弱みを見せた時、

無理をしていると感じた時は

優しくしてあげていい。

自分に置き換えても、

しんどい時には、

優しくされたいと思うはずだ。

人間は虚勢を張って生きる

生きもの。

本当は誰かの手に支えられて

生きたい生きものなのだ。

 

 

手の届かない距離で生きない

 

(今日のコトバ)

 

孤高の頂まで

登らなくていい。

中腹あたりで腰を降ろして

世界を見渡してみよう。

 

 

孤独になってみたい時がある。

人間関係が煩わしくて、

自分一人の時間がほしい。

自由になる時間がほしい。

そんな気持ちになって、

自ら孤独を選択する。

誰にでもあることだ。

だが、

その孤独が行き過ぎてしまうと、

孤高になってしまうことがある。

言葉だけ聞くと

かっこよかったりするが、

孤高になると

手をつなぐことが

できにくくなる。

もっというと、

手を差し伸べることが

できにくくなる。

そうなると、

自分の想像以上に

孤独になり、

孤立してしまうこともある。

だから、

孤独を求めるのはいい。

ただし、

孤高になって、

人から届かない距離で

生きることはしない。

誰かが側にいてくれる状況を

確認して孤独になる。

すぐに、

誰かの下に帰ってこれる。

それぐらいの気持ちで

孤独を求めるようにしよう。

困難を乗り越えて優しさが身につく

 

(今日のコトバ)

 

優しさは、

心の傷と連動している。

 

 

優しい人って、

どこから生まれてくるのだろう。

もともとの性格が優しくて、

人柄として優しい人はいる。

ただ、

人生の経験を経て

優しくなっていく人は、

深く、強く、

優しさを伝えてくれる。

そんな人を

何人も知っている。

その人たちには

一つの傾向がある。

それは、人生を懸けた困難、

試練を越えてきた人たち。

苦しみや悲しみを自力で

乗り越えてきた人たち。

そんな人たちは、

みなどこかに優しさがある。

その優しさも、

困った時に

手を差し伸べる優しさ。

本当に手を貸してほしい時の

優しさなのだ。

もしかすると、

優しさは心に傷を負った人が

身につける能力かもしれない。

だとすれば、

人に優しくできるかは、

自分が困難を克服しているかと

比例する。

もし、いま、困難に対峙していたら、

この先、困難を乗り越えた時、

自分に優しさの能力が、深く、

強くなる。

そういう理解があってもいいと思う。

はじめに言葉づかい

 

(今日のコトバ)

 

どんな言葉も使い続ければ、

あなたの人生に似てくる。

そして、言葉は

あなたの自身になる。

 

 

その人の印象を決定づけるのは

容姿もあるが、

いちばん感じるのは言葉使い。

どんな言葉を使うかで、

その人をイメージしていく。

例えば、

キレイな言葉を使い続ける人は、

品が良い人と思えるし、

汚い言葉を使い続ければ、

柄の良くない人と思える。

もちろん、

それが正解というわけではないが、

その人のイメージの構築にはなる。

そして、まわりからイメージを

決められると、

そのイメージ通りの

人になっていくことが多い。

つまり、はじめは言葉づかい。

だからこそ、

言葉づかいを大切にしたい。

特に、自分が使い続ける言葉は

人生を決定づけていく。

そのことを忘れてはいけない。

後始末を任せられる人

 

(今日のコトバ)

 

人生は、

後始末しながら成長する。

 

 

何かを始めたら、

終わりがある。

終わりがあると、

必然的に後始末が必要になる。

この後始末、

最後の片づけだけのように

考えたりもするが、

実は、人生において

大変重要な役を担っている。

まず、後始末ができる人か、

できない人かが、まわりから

見られているということ。

キレイに後始末できる人は、

仕事の遂行能力、

管理能力などに

優れていると思われる。

また、後始末を任せられる人は、

仕事のできる人という

信頼感もある。

おおむね大きい仕事、

大事な仕事を任せられる。

さらに、

人間性も良い人と思われる。

最後まで手を抜かないことを

知ってる人は、

人柄の評価も高くなる。

つまり、

後始末を任せられる人は、

人間力、人間性を

認められているのだ。

だとすれば、

後始末を任せられたら、

自信を持っていい。

そして、後始末を

任せられなかったら、

任せられる人になることを

目標にする。

成長するために大切なことだ。