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(今日のコトバ)
逃げ道に幸運は落ちていない。
どうしても苦しくなったら、
逃げていい。
逃げ道を走ってもいい。
考えてみれば、
勝利者とか、
成功者とかよばれる人たちも、
成り上がっていく途中で、
何度も逃げ道に
足を運んだ人ばかりだ。
もちろん、
逃げたまま終わりではなく、
また、本道に戻って、
驀進していくのだが。
だから、誰でも逃げてもいい。
逃げるべき時もある。
一時的に逃れて、
体制を立て直す。
ただし、逃げ道には幸運は
落ちていない。
あくまでも、
難から逃れるだけだと
考えた方がいい。
そこからは復活するのは、
勝利者、成功者のように、
また、本道に戻って走り出す。
そこから新しい人生が始まる。
そのことを肝に銘じた方がいい。
(今日のコトバ)
ケンカは、
勝利より和解が
最高の結果である。
勝負は勝った方がいい。
負けたより成果があったと
思える。
誰でもそうだと思う。
ただ、勝負でもケンカのような
場合は、ちょっと違う。
勝っても、不快感は残る。
負ければ、悔しさが残る。
できれば、この先、
もうケンカをしないで
済む方法はないかとも思う。
だとしたら、
ケンカの最高の結果は、
和解ではないだろうか。
「いろいろもめごとがあったけど、
もう争うのはやめよう」
そこで和解する。
和解すれば、
後腐れがなくなる。
勝つ、負けるより、
いい結果。
それが和解。
いま、
ケンカしていることがあれば、
どうすれば和解できるか。
そこに戦術のすべてを
集中しよう。
ワルい状況には
ならないはずだ。
(今日のコトバ)
「いつか」は、
言い訳の絶対的主語になる。
あまり本気でなかったり、
できそうもないと思った時、
いいかげんな気持ちで、
「いつか」という言葉を使う。
本当は、「いつか」とは、
希望を込めた可能性の言葉。
だが、生活の中で使われる
「いつか」は、
言い訳の片棒を
担いでいることが多い。
自分自身においても、
「いつか」と使う時は、
漠然とした時に使う。
おそらく、ほとんどの人は
そうだろう。
だとしたら、
「いつか」という言葉を
使わないで生きてみる。
つまり、目標に対して
期限付きで生きてみる。
考えてみれば、
夢や希望だって、
期限をつけなければ
達成までのモチベーションが
低くなる。
いま、「いつか」という言葉を
軽い気持ちで使っている人は、
「いつか」ではなく、
期限付きで予定を組むことを
考えてみよう。
目標達成までの意識が
はっきりする。
道筋が見えてくる。
目標へ生きる時間を
有効に投入できるはずだ。
(今日のコトバ)
顔は、心にいじられる。
表情ほど心を明解に
表現するものはない。
人を騙そうと、
あえて作り顔を
するのでなければ、
たいてい感情のままの
表情を作ってしまう。
心が表情を
支配しているともいえる。
だとすれば、
激動の世の中で
平然と生きるために、
心を揺り動かさない
ことを考えた方がいい。
では、どうすれば
心が揺り動かないか。
それは、
少しずつ心に負荷をかけて
心の状況を把握しておく。
どんなことが起これば
心が揺れるのか。
その状況を把握しておけば、
心がグラグラすることも
なくなる。
初体験のものや
困難な状況には、
心は揺れてしまう。
初体験を減らし、
困難を乗り越えたキャリアを
増やしていく。
心はキャリアがあれば、
揺り動きにくくなる。
心の動きが
「顔に出ているよ」と
いわれないために、
人生のキャリアを
積んで生きる。
大切なことだ。
(今日のコトバ)
転んだ位であせるな。
先を行く者も、転ぶ、倒れる、
あきらめる。
勝負はまだまだこれからだ。
勝負をしていると、
自分との戦いが
多くを占めることに気づく。
「なぜ、
自分はできないのだろう」
「なぜ、
自分はあきらめて
しまうのだろう」
そんなことを思いながら
戦っている。
だが、勝負は
自分だけの戦いではない。
必ず相手がいる。
その相手も
自分との戦いをしている。
しんどくて
辛い戦いをしている。
転ぶこともあれば、
倒れることもある。
場合によっては、
リタイアすることさえある。
自分が自分と
戦っているうちに、
相手があきらめて
しまうこともある。
だとしたら、
勝負をあきらめず
戦い続ける。
戦いつづけたから
勝つ勝負もある。
ただただあきらめない戦いも、
自分の勝負の勝率を上げる
一つの方法だ。
(今日のコトバ)
弱音に本音あり。
失言に本心あり。
本音を聞きたいとか、
本心が知りたいとか。
相手の気持ちがわからない時、
考えてしまうことがある。
対面しているのだが、
どうも本音・本心が
わからない。
もっというと、
言葉と行動が伴わない。
実は、気持ちは違うことを
考えているのではないかと
思ってしまう。
そんな時、
本音・本心を知る方法がある。
それは、
どこかで弱音を吐かせてみる。
あるいは、
怒らせて吐く言葉を拾う。
怒りの言葉には
たいがい本心があり、
失言になることも多い。
人間には、
普段は隠している
本音・本心を、
追い込まれると
吐き出す習性がある。
あまり人を追い込むのは
いかがなものかと思うが、
どうしても本音・本心を
知りたければ、
弱音や失言を吐いてしまう
状況をつくる。
本音・本心は、そこで聞ける。
(今日のコトバ)
人生は、
引き算ができようになって
傑作になる。
足す。増やす。積み上げる。
何も銀行の資産運用の話ではない。
特に、人生の前半において、
心のどこかにあった
意識とでもいおうか。
とにかく、
プラス、プラス、プラス、、。
プラスすることが良いことだと
思っていた。
だが、年齢も後半戦になり
衰えも気になると、
プラスだけではない人生も
考える。
例えば、ちょうどいい。
このぐらいがベターだと思う。
それが最高でなくても、
人生にプラスにならなくても、
いまの自分に合っている。
ちょうどいいと思う。
さらにいうと、
無駄なものは捨てる。
生き方をシンプルにする。
あえていえば引き算の美学。
そんなことを考える時間が
増えてくる。
つまり、
人生はプラスぱかりではない。
減らしてく引き算も必要。
そう感じてならない。
そして、
人生は引き算をできてこそ
有意義なものになる。
人生の後半戦は引き算の
正解も探していきたい。
(今日のコトバ)
自分の姿を見たくない時、
他人の不幸を探している。
どうも自分はイケてない。
上手くいっていない。
かっこわるい。
不運が続ている、、。
そう思うと、
人はなぜだか
他人の不幸を探し始める。
最終的には誰でもいいのだが、
できるだけ自分の近くの人間の
不幸を探す。
探した上で、陰口、
わる口をいいふらす。
何の解決にもならないのだが、
どこかで留飲を下げている。
きっと、
誰でも経験はあると思うし、
経験はなくても
気持ちはわかると思う。
人間のどこかに、
自分がイケてないと、
誰かの不幸を探すという機能が
ある気もする。
だが、他人の不幸を探して、
陰口、わる口をいうのも
人としていかがなものか。
本当にかっこわるくなってしまう。
だからこそ、
他人の不幸を探し始めたら、
自分のイケてないアラートが
鳴っていると考える。
そこで自分を戒める。
他人の不幸探しは、
自分のイケてなさの証だと。
それだけで、
少しかっこいい生き方が
できるはずだ。
(今日のコトバ)
言い訳は、
成功の花道を茨の道にする。
とにかく言い訳をする人がいる。
条件反射的に言い訳を
身に着けている人もいる。
ある案件に対して弁明する。
もちろん、正当な理由があって
弁明することは正しい。
だが、とにもかくにも
言い訳してしまう人がいる。
自分から面倒を避けるために、
逃げの一手を打つ。
そんな人は、
意外に言い訳が上手くいかない。
言い訳して、一端難を逃れるが、
逃れきれずに結局、
損な役回りが巡ってくる。
言い訳が防御にならない。
反対に、言い訳せずに
肯定的に物事を受け入れる人は、
結構、得をすることが多い。
すべてがすべてではないが、
言い訳は行動する時に
邪魔になる。
そう考えて、
日々出会うことを
一つ一つ感謝して
受け入れてみると、
自分の世界が広がる。
新しいチャンスが生まれる。
人生においての良い事が
続いてくる。
言い訳派より肯定派で
生きるのも、
人生を有意義にする
方法だ。
(今日のコトバ)
最高になるために、
最善を積み上げる。
「最高を目指す」
目標とはそういうものだ。
常に掲げた目標を更新し、
最高を記録する。
それが永遠に続けば
いいのかもしれない。
だが、
最高を更新し続けることなど
ありえない。
必ずどこかで結果が出なくなり、
挫折を味わうことになる。
それも人生。
それが人生ともいえる。
では、最高という目標に対して、
どう挑んでいけばいいのだろう。
それは、常に最善を尽くすこと。
状況が良い時もワルい時も、
最善の方法を選び、
最善を尽くす。
この連続が、最高を生む。
失敗して挫折しても、
また、最善を尽くせば、
結果を出せる。
「最善に次ぐ最善」
それが最高への
ロードマップになる。
最高を目指す上で、
そのことを絶対に
忘れてはいけない。
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