一生をかけて追う夢

(今日のコトバ)

 

遠くに夢があるのなら、

遠くまで行ってみようじゃないか。

 

 

 

 

ここにはない、どこかに夢があるなら、

その夢を探してどこまでも歩いてみようじゃないか。

もしかして夢の答えがないかもしれない。

歩き行く道が違う道かもしれない。

それでもいいじゃないか。

遠くに夢を描いて歩いていくのは、素晴らしいことだ。

すぐ手に入る夢は、賞味期限もすぐやってくる。

だか、一生かけて追い続ける夢は、いつまでも楽しめる。

そして、一生かけて追う夢は、その過程で人間を大きく成長させる。

遠くまで自分が行ける夢を見よう。

元気が幸せの素

(今日のコトバ)

 

空元気の中に、もう元気がいっぱい入っている。

 

 

 

元気は製造するものだ。つくり出す意志がなければ、

ほんとうの元気はわいてこない。

仮に空元気でもいいから、元気になろうという

エンジンをかけて動き出さなければ、

萎れた気持ちを復活させることはできない。

ただ、元気というのは単純なもので、

気合いの入れ方次第でわいてくるものなのだ。

だから、ちっょと枯れても、ちょっと疲れても、

元気を自分の意志で造り出そう。

元気があれば、チャンスが寄ってくる。

元気があれば、チャンスに近づいていける。

元気が幸せの素なのだから。

                                

実力のポジション

(今日のコトバ)

 

スーパースターだけ集めても勝ち続けられない。

人間には勝つためのポジションがある。

 

 

 

レアル・マドリードやニューヨーク・ヤンキースのように、

スーパースター軍団をつくって試合にのぞんでも、

ナンバーワン・チームにはなれない。

優勝するチームは、トップに立つチームは、

名前があるなしにかかわらず、

任せられたポジションをしっかり遂行できるプレーヤーを

配置している。そのポジションしかでないかもしれないが、

そのポジションは誰よりも力を発揮する。

また、名前があるとフォア・ザ・チームの精神を失い、

自分の名誉欲に重きをおくプレーヤーもいるが、

適材適所で考えれば、犠牲の精神でチームプレーに徹して

くれるプレーヤーも選出できる。

チームで戦う場合、名前よりも犠牲の精神も含めた

プレーヤーで固めた方が勝利に近づく。

社会でも、この論理は同じはずだ。

しかし、社会も同じように肩書きで人選し大失敗を繰り返す。

学歴で採用する。肩書きだけでヘッドハンティングする。

実力もないのにコネを優先してしまう。

結果、経営は失敗しどん底になる。

本当は、何かを始める場合、本人にその何かをやらせてみせて、

仕事や事業にフィットするかを考えなければ上手くはいかない。

肩書きなど、ほとんど意味がないのだ。

もし、いま、何かを始めようとするならば、

本当の、本物の実力を見極めて人選しよう。

そして、自分自身も肩書きに関係なく実力をもち、

社会でしっかりポジションをとれるように生きよう。

 

ジーコ・ジャパンのドイツ・ワールドカップ大会代表選手が、

明日発表される。選出メンバーを実績で選ぶのは結構だが、

思い込みや名前だけで選ぶのはやめてほしい。

一試合でも多く勝ち上がる日本代表をみたいのだから。

満足の積み重ね

(今日のコトバ)

 

一日必勝で、夢に向かえ。

 

 

 

寿命がわかっているとしたら、

人間はどう生きるだろうか。

あまり変わらない人間もいると思うが、

死期が近いと知ってしまえば、

やりたいことをやらずして死ねるかという

気持ちになるだろう。

具体的な数字では出なくても、

人生の時間は限られているのだ。

だとすると、「一日一日大事に使おう」と

という言葉をもう一度意識する必要があると思う。

明日に残すことを考えずに、

今日できるだけのことをやっていたら、

一日を満足して終われる。

けして、それで死んでしまっていいわけではないが、

満足した日の積み重ねの人生の方が、

自分でも納得できる生き方のはずだ。

だからこそ、一日必勝。

その生き方が続いていけば、

満足しながら夢につながっていける。

人生が、もっともっと有意義になるはずだ。

はじめてだから手柄になる

(今日のコトバ)

 

手垢のついていないことをやって、

手柄をあげる。

 

 

誰かがやったことを、後からやっても

あまり評価はされない。

同じ道で評価されるには、ちょっとやそっと

がんばってみても、元祖を抜くことはではない。

百倍も、二百倍も、結果を出して追いつくかどうかだ。

はじめて道をつくった人間は、凄いのだ。

だとしたら、誰もやっていないことに基準をおいて、

そこで成果をおさめる努力したらどうだろう。

当然、前任者がいないので、試行錯誤は繰り返すが、

荒野を耕し新しい世界をつくったり、

まだ誰も歩いたことのない道をつくれば、

まちがいなく、その筋での地位は築ける。

誰かの後を続いて歩くより、

圧倒的に有意義な生き方ができると思う。

新しいことやって、手柄をあげよう。

少しだけ道程は厳しいけれど。

小さなサプライズ

(今日のコトバ)

 

普通の生活に、予想外のおみあげを。

 

 

 

どんなにおいしいものでも、毎日食べればあきてくる。

どんなに欲しいものでも、たくさん手に入ればいらなくなる。

平凡な日々に、時々ときめきがあってこそ、

モノの価値がわかるというものだ。

欲しいものを、ちょっと我慢して、

その報酬として、そのギフトとして、

望みのものを手に入れる。

幸せが訪れるように、夢が叶うように、

日々の生活にときめきがあれば、

また、明日から気持ちよく生きていける。

もっと、元気に生きていける。

人は、小さなサプライズでも、

充分楽しみながら生きていけるのだ。

デフォルメされた自分

(今日のコトバ)

 

大嫌いな人は、鏡にうつったあなたです。

 

 

 

とてもつきあいたくない。顔を見るだけで腹が立つ。

動作がイチイチ気にさわる。

大嫌いなると、考える間もなく人格を否定してしまう。

誰にでもある感情だ。

ただ、自分ではよくわからないことだが、

大嫌いな人の嫌いな部分は、自分の癖を

デフォルメしている場合がある。

「あいつ、最低だよ」といっている人間を見て、

「お前こそ、最低だよ」と思う時がある。

その場合の「お前こそ」は、最低の相手と同類だと感じているのだ。

うるさい。勘にさわる。自己主張が激しい。理不尽なことをいう、、、。

ほんとうに頭にも来るのだが、そういう人間って、

自分の悪いところを、さらにわかりやすくしていることが多い。

だから、ほんとうに嫌いな人がまわりにいたら、よく観察してみよう。

よく見ると、自分とよく似ている部分があるはずだ。

そして、ほんとうに嫌な部分だと思ったら、その部分を直そう。

大嫌いな人は、自分の鏡の役目も担っているのだから。

卑怯者はバカをみる

(今日のコトバ)

 

卑怯者は、

最後に正直者に負けることになっているのだ、

人生劇場は。

 

 

 

辛い状況になると、ちょっとズルをしてみたくなったり、

インチキをして、出し抜こうと思ったり、

やばくなったら、誰かに責任を押しつけたり。

人が卑怯になる時は、人生の様々な場面でおとずれる。

その卑怯な行為は、その場しのぎでは問題を回避できるのだが、

たいがい後から痛い目にあうのが世の常だ。

ちょっとだけ安心する。少しだけ相手に勝った気がする。

一瞬誰かのせいにできる。

でも、それはあくまでも、その場しのぎで、

結局、まっとうに頑張っている人が、

ちゃんと行きたい所にいけ、ちゃんと評価されている。

まわりを見渡してみればわかる。

実は正直に頑張っていてバカを見ている場合は、あまりない。

もしバカをみているとしたら、正直のフリをしたり、

頑張っているフリをしているだけなのだ。

だから、堂々と正直にがんばって生きてみよう。

そうすれば、悪いことはそれほど人生で遭遇することはない。

涙の後に

(今日のコトバ)

 

涙は、情熱の放出だ。

 

 

 

こみあげてくる涙は、温かい。

それは、人間の情熱のマグマから発生しているからだ。

人間の機能とか、生理的な問題とか、

そんなことはどうでもよくて、

涙は、情熱の熱で温められて流れてくる。

勝った時、負けた時、悔しい時、

感動した時、そして、悲しい時も、

情熱に触れた心の汗が、涙となって流れるのだ。

だから、生きていく上で涙を流すことは、

とても大切だ。涙をちゃんと流せる人間の方が、

涙を流さない人間よりも、健康的だといえる。

もし、いま、泣きたいことがあったら、

我慢せずに涙を流そう。

体の中で情熱を燃やすだけでなく、

燃やした情熱の汗を放出しよう。

涙の後のあのスッキリとした気持ちが、

自分をリセットしてくれる。

次のスタートラインに立たせてくれるのだ。

不安はひとりではない

(今日のコトバ)

 

安心しろ。みんな不安なのだ。

 

 

 

追いつめられると、自分ひとりが不安になった気がする。

眠れなかったり、ピリピリしたり、落ちつきを失ったり。

集中力もなくなり、何も手につかなかったりする。

ただ、その不安もひとりではないと思ったら、

少し気持ちきが楽になるのではないだろうか。

逆にどんな状況でも、自分だけが不安なのではなく、

その状況に関わるすべての人が、すくなからず不安になっている。

受験も、面接も、仕事も、何かの扉を開く前には不安だ。

恐怖を与える人に近づく時も不安だ。

物事を予定通り遂行できなくても不安だ。

でも、考えてみると、ひとつひとつの不安は、

生きているすべての人がもつ不安であり、

同じ状況におかれている人は数限りなくいる。

また、同じ出来事で不安におかれている人も、

自分ひとりではないだろう。

共通の不安ならタッグを組んで解消してもいい。

ようは、みんな不安をもっていると知ること。

ナーバスになって不安が襲ってきたら、

みんなも同じ状況だということを思い出そう。

それだけで、少し安心して生きられるのだから。