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(今日のコトバ)
年齢は、
経験値を表すことができない。
いくら年齢を重ねてみても、
わかるものがある。
15歳だから、
20歳だから、
30歳だから、
50歳だから、
60歳だから、、。
同じ20歳でも、常識人と
常識の欠片もない人では、
まったく違った生き方になる。
50歳だから、家族も養い、
会社では管理職になり、
そこそこ幸せを感じながら
暮らしている人もいれば、
まったく一人で暮らし、
世間とのコミュニケーションを
持たない人もいる。
年齢が同じでも、
人間は生き方によって、
まったく違った世界で生きていく。
その経験値はまったく違う。
だとすれば、
年齢なんて
ただの数字と考えればいい。
人によって、
同じ年月を生きても
違う能力を有する。
履歴書の年齢だけでは
わからない能力が人にはある。
そのことを忘れてはいけない。
(今日のコトバ)
生きものはみな想像するが、
創造できるのは人間だけだ。
新しいものを創り出す。
生きものの中で特出して
その能力を発揮できるのが人間。
だからこそ、
信じられない進化をしてきた。
宇宙人がいるかいないか
知らないが、
これだけ進化した
生きものがいる星も
ほとんどないはずだ。
その進化はなぜ起こったか?
それは、創造できたからに
他ならない。
創造できたからこそ、
無限の進化をしてきた。
その創造という人間最高の強みを、
自分の人生の中でも
最大限に使う。
使うからこそ進化する。
新しい未来を創り出せる。
その思いを信じて生きれば、
自分の世界が大きく広がる。
もっと遠くへ、
もっと先へ、
進んでいけるはずだ。
(今日のコトバ)
ケンカは一人ぼっちに
なるためにするものではない。
かけがえのない友を
増やすためにするのだ。
生活していると、
どこかでイザコザが起こる。
場合によっては、
ケンカと呼ぶぐらいの
諍いになることもある。
暴力になるのは困るが、
議論を戦わせて、
言い争うことがあっても
不思議はない。
否、むしろない方が不思議だ。
そして、ケンカをすると、
その後の関係が
修復できなかったり、
微妙な付き合いに
なったりすることもある。
だが、それではせっかく
ケンカした意味がない。
ちょっと言葉として変だが、
ケンカをしたら、
その分、深く理解しあって、
もっと絆を強いものに
すべきだと思う。
ケンカをするということは、
お互い熱くなる
何かがあったはずだ。
その熱さをお互い知り合ったなら、
お互いの本音もわかる。
本音がわかれば、
付き合い方もわかるはず。
世の中に本音のわかる他人は、
そうそういない。
そういった意味で、
ケンカした人は
貴重な関係になったといえる。
深く絆を結んだ関係になる。
お互いを理解しあえる関係になる。
この世の中でかけがえのない
人になったといっていい。
そう思って、議論し、
少々の諍いに挑んでみる。
かけがえない人と
つくるには大切なことだ。
(今日のコトバ)
先がある。
次がある。
明日がある。
未来がある。
いまを生き抜けば、
いべて新しいものに続いている。
「いま」が過ぎれば、
すべてが未来の領域になる。
おおげさにいえば、
未体験ゾーン。
似たような体験だったり、
あたりまえの時間が過ぎても、
未体験になる。
そう考えると、
「いま」辛いことや悲しいことが
あっても、
「いま」を過ぎれば
リセットできる。
痛みを感じるのは、
未来でもなく、
過去でもない。
「いま」だけなのだ。
だからこそ、
辛いこと悲しいことが
あっても、
ガマンしてみよう。
未来になれば、
辛さ悲しさだけでなく、
痛みも治まってくる。
人間は、
「いま」より
もっと素晴らしい未来を
願う生きもの。
その生きものの特性を頭に入れて、
「いま」を頑張って生きよう。
(今日のコトバ)
人生、
過去のことを笑い話にできたら
合格である。
いま、この瞬間を過ぎれば、
すべてが過去になる。
その過去をどう思うか。
反省する材料とするか。
負の遺産とするか。
人生の財産とするか、、。
ただ、一番いいのは
何だろうと思うと、
過去が笑い話になることではないかと
思うのだ。
「あの頃、あんなことあったね」と
笑いながら話せる。
まわりの人も笑顔になる。
楽しいことだけではなくて、
辛いこと、
悲しいこともあるけれど
笑い話になる。
それこそが素晴らしい人生の
証明ではないだろうか。
だから、
もし、過去の話をしていて、
笑い話になっていたら、
それは人生として正解。
その基準で生きてみるのもいい。
一度限りの人生、
笑い話満載で
生きるのもいいじゃないか。
(今日のコトバ)
故郷を誇れる人こそ、
ほんとうに
誇りのある人だと思う。
自分の故郷に何を思う?
懐かしいと思うか、
最高と思うか、
思い出したくもないと思うか、
最低と思うか、、。
人それぞれだろう。
ただ、一生懸命生きてきた人は、
たいがい故郷を誇りに思っている。
いい事、ワルい事あったはずだが、
それでも誇りに思っている。
では、誇りとはどういう意味か。
それは、
一生懸命生きた代償ではないか。
一生懸命になった記憶が
あるから自信になる。
生きていく上での姿勢になる。
その原点が故郷にある。
そう思うと、
故郷を誇りに思える人は、
一生懸命生きた人といって
いいのではないだろうか。
もちろん、故郷は
同じ環境ではないから、
誰にでもというわけにはいかない。
ただ、故郷が誇れる人は
ほんとうに
誇りのある人だと思う。
(今日のコトバ)
足跡を残して歩み、
爪跡をつけて駆け上がり、
傷跡を刻んで生きていく。
そして、人生は奇跡を生むのだ。
毎日、現実にさらされれば、
体や心に傷の一つや二つ
刻んでしまう。
長く生きれば生きるほど、
その傷跡は増えていく。
だが、
それはワルいことではない。
傷跡があるから、
生きることに強くなれる。
人生は傷の上に
成り立っているといっても
過言ではない。
そして、その傷が生み出すのが
生きる奇跡。
毎日という日常は、
奇跡から奇跡のリレー。
24時間という時間を
頭が埋めてく奇跡のプレイ。
誰も自分の人生を変われない。
人生という時間から
奇跡から生まれていると
思うと、
一日一日が愛しくなる。
だからこそ、
「毎日は奇跡でできている」
そう信じて生きていこう。
(今日のコトバ)
普通の人は、
お金が足らないという。
お金持ちは、
幸せが足りないという。
幸せな人は、
普通に満たされているという。
人間はないものねだりだ。
何かが満たされたら、
何かが足りないと思う。
その繰り返しが
人生をつくるといってもいい。
足りないものが
夢や目標になることもあるから、
ないものねだりも
ワルいことではない。
ただ、常に足りないと
思ってばかりでは、
いつか自分が枯渇する。
では、
満たされている人は
どういう人だろう。
それは紛れもなく
幸せな人。
そして、幸せだな思う人を
よく見ると、
一つのことに気づく。
それは、普通のことでも
満足していること。
幸せの設定を
高いところに置かず、
毎日の中から探し出す。
幸せを
感じられる状況にする。
そんな人は、
いつも幸せな人だ。
もし、いま、
自分に幸せが
足りないと思ったら、
幸せの設定を
普通のことに合わせてみる。
それだけで、
幸せ満たされた人生を
送れるはずだ。
(今日のコトバ)
前進ばかりが突破ではない。
逃げる、止まる、戻る。
どこからでも突破はできるのだ。
何かを突破しようと思うと、
とにかく猪突猛進、
前進あるのみと
思いがちだ。
勢いがある時なら
それもありかもしれない。
だが、勢いがない時や
苦戦、防戦の時は
そうもいかない。
では、どう突破すればいいか。
考え方として、
全方位で考えてみる。
逃げてみるとどうなるのか?
このまま止まっているのは
どうなるか?
来た道を戻ってみると
ヒントはないか?
前進一択ではなく、
あらゆる突破口を
シュミレーションしてみる。
そこから前進以外の
突破する方法が
見つかることもある。
突破口を見つけるには
全方位で考える。
覚えておいて
いいことだと思う。
(今日のコトバ)
人間として
生まれてきたんだ。
一生分の幸せを使って
生き抜こうじゃないか。
生まれてから
命が終わるまで、
どれだけの幸せと
めぐりあってきただろう。
数など数えきれないが、
幸せとはめぐりあってきた。
ただ、
幸せとたくさん
めぐりあっていると思う人と、
そうでない人がいる。
できれば、誰もが幸せと
たくさんめぐりあっている
人生にしたいと思うだろう。
では、どうしたらいいか。
それは、幸せのハードルを
下げてみる。
朝起きてから夜眠るまで、
自分に起こる幸せを数える。
「朝晴れていた」
「おいしい食事を食べた」
「好きな人と話せた」
なんでもいいのだ。
自分に起こったいいことを
幸せの領域に入れてしまう。
それだけで、
ちょっと楽しく生きていける。
生きていると自分のまわりに
たくさんの幸せが起こる。
そのことをしっかり覚えておこう。
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