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(今日のコトバ)
丸でなくても、
いびつなカタチでも、
みんなが一つになれば、
それが理想形。
チームで勝利に向かうなら、
一糸乱れず向かうのが最高の形。
一丸という言葉もある。
だが、チームの形は
丸くなるのがすべてではない。
誰か飛びぬけたスターがいて、
それを支えるチームでもいい。
各パーツに才能のある者を
集めるチームでもいい。
もっといえば、
バラバラのような
個性があっても、
目的意識が統一されていて、
みんながプロに
徹することができれば、
それも理想形になる。
例えば
プロ野球を見ればわかる。
管理野球で
成果を上げるチームがあれば、
データ至上主義で
結果を出すチームもある。
また、選手にモチベーションを
与えて飛躍するチームもあれば、
最近は流行らないが
根性論で束ねるチームもある。
勝利という一つの目標を
持った時、
どの戦術でも達成したら
理想形。
そのことを意識して
自分のチームを導く。
チームの理想形は、
チームの数だけあるのだ。
(今日のコトバ)
悪魔だって、
汚れていない心を持ってる。
天使だって、
美しくない心を隠してる。
完璧はない。
特に、心といわれる
目に見えないものは、
すべてが
汚くなることもなければ、
すべてが
美しくなることもない。
少し汚れているか、
汚れが目立つか。
あるいは、
少し美しいか、
美しさが目立つか。
汚れも美しさも、
どちらも持っているというのが
人間性の正解だろう。
だからこそ、
一方的に人を
決めつけてはいけない。
「アイツは汚ない奴だ」と
決めつけてしまうと、
大きな間違いを起こす。
反対に、
「アイツは心の美しい奴だ」と
決めつけても、
間違いに気づくことがある。
人間は心に
悪魔と天使がいるという。
そのことを肝に銘じて生きる。
人との関係を
近視眼的に見ないようにしよう。
(今日のコトバ)
「みんな」は、
主語として責任がとれません。
「みんなが言ってるよ」と、
話の中で言うことがある。
「みんな」を
すべての人と言う
意味だとすると、
すべての人に
確認したはずもないのに、
「みんな」と言う。
大雑把に、
大げさにいっているのだ。
言った本人は、
「概ね、みんながそう思っている」
といいたいのだ。
だが、本当にそうだろうか。
「みんなが思っている」などと
確信して話す根拠などほぼない。
それでも「みんな」という。
それは自分の主張が正論だと
言いたいからに他ならない。
今風にいうと、
マウントを
とりたいと思っているのだ。
それだけで「みんな」という
言葉のご威光を使ってしまう。
だからこそ、
「みんなが言っている」と
言葉を使うのは
気をつけた方がいい。
言葉の威光は、
言葉の圧力になり、
人への圧力にもなる。
「みんな」という一言が、
意味もなく人への圧力になる。
そのことを忘れてはいけない。
(今日のコトバ)
「嘘でもいいから」と願い、
「真実はいわないで」と拒むのが人間。
人間は矛盾した生きもの。
嘘は悪、真実は善と
薄々思いながら、
本当のことには
耳をふさいだりする。
知りたくないという気持ちと、
知りたいという気持ちがあって、
優先する気持ち次第で
嘘を受け入れたり、
真実を無視したりする。
ただ、
それは生きる知恵ともいえる。
いい方を変えれば、
嘘も、真実も、
都合よく使って生きる。
罪にならないぐらいの嘘なら、
その嘘を信じたふりして生きる。
ダメージがなければ真実も
知らんぷりする。
そうすることで
日常を平和に過ごせるなら、
それも良し。
人生はつらいことがたくさんある。
そのことを乗り切るために、
嘘と真実を上手に使って
生きるのが
人間という生きものなのだ。
(今日のコトバ)
可能性とは、
才能が射程距離に
あることをいう。
誰かが、自分が、
「可能性がある」と思った時、
それは不可能の領域ではなく、
可能な領域にあることを意味する。
その時の人間の成長は、
目を見張るものがある。
手にできそうな何かに向かって
無心に手を伸ばす。
人生でこれほど勢いが出る時はない。
そして、
「可能性がある」と思うものには、
どこかに自分の才能の自信もある。
簡単にいえば、
「才能がある」と思える
領域に足を踏み込んでいる
といっていい。
だとすれば、
可能性を感じたものに
夢中になって
取り組んでみる。
可能性があるものに対して、
つまらないものはない。
面白いと思う方向へ進める。
人生でそんな楽しいことはない。
「可能性がある」という方向を
大切にするのだ。
(今日のコトバ)
努力は、
未来をつれてくる
腕力になる。
「努力は裏切らない」
「努力は必ず報われる」
子供の頃、そう教わってきた。
だが、ほんとうに
努力にそんな力があるだろうか。
努力をしたと思っても、
達成できなかった目標など
たくさんある。
努力してもムダだと思った時も、
正直ある。
もちろん、
「努力が足りないからだ」と
いわれてしまえばそれまでだ。
ただ、努力することが
万能でないことも確かだ。
では、努力とはどんな力を生むのか?
長く生きてきて思うのは、
未来を生き抜くための
腕力になるということは
いってもいいのではないか。
努力していけば、
少しは現状より成長する。
その力は、
大きいか小さいかは別にして
未来に役立つ。
そう思うと、
努力をするのもワルくない。
来るべき未来のために
役立つ力をつけること。
それが努力。
そう信じて生きてみるのだ。
(今日のコトバ)
優しくもない人の優しさは、
いずれ相手の負担になる。
誰もが優しくしてほしい。
特に、傷ついている時は、
優しさに包まれたいと思う。
その時、優しくしてくれる人は
とても大事。
自分の心の復活に一番の力を
貸してくれるといっていい。
だが、この優しさが本当の
気持ちからくるものではなく、
何か打算の優しさだとしたら、
後で痛い目にあう。
優しくした分を
返せという人がいる。
優しくしたふりをしただけで、
急に冷たくなる人がいる。
そもそも優しさを誤解させて、
優しくしていない人もいる。等々。
優しさは
心からのものでなければ、
人生の重荷になることもある。
だからこそ、
簡単に優しさに
甘えるのではなく、
本当に
優しくしてくれているかを
見極める。
その上で優しさに癒される。
優しさとの距離も、
人間の生き方として
大切なものだと思う。
(今日のコトバ)
喜怒哀楽は、
心を不法占拠する。
予想できない
感情の昂ぶり。
コントロール不能な
感情の昂ぶり。
人間の感情は、
自分では
どうしようもないこともある。
心を良い方に、
あるいは、ワルい方に
動かしてしまう。
だからこそ、
人間は面白い。
人生は面白い。
どんな人も予想不可能な
生き方をする。
だとすれば、
感情の昂ぶりに合わせて
人生を楽しめばいい。
もちろん、
罪になるようなことは
いけないが、
感情の赴くままに
人生を生きてみる。
あまり感情を抑制して
生きると、
自分の魅力も半減する。
感情に自由に活かして
自分らしく生きてみよう。
(今日のコトバ)
人生は、
用量、用法を守って
正しくお使いください。
少し言葉が過ぎるが、
人生は正しく使ってべきだと思う。
大きな意味で人生は、
やり過ぎると
壊れることがある。
やらな過ぎると
錆びることがある。
つまり、人生がいきいきするには、
「ちょうどいい」塩梅が必要。
ちょうどいいというと、
半端な感じがするが、
速くても、ゆっくりでも、
自分のペースを守れる方が
圧倒的に成果を出せる。
長く生きているからこそ、
そう感じずにはいられない。
自分の習慣といってもいい
ペースを守る。
用量・用法を守るように
生きる。
それができるだけで、
着実に自分の目指した方向へ
行ける。
そのことを理解して
生きてみると、
人生が自分のものになると
実感するはずだ。
(今日のコトバ)
出会う人すべてが、
運命の人だ。
運命を変えていくこと。
その一点において
一番重要なのは、
人との出会いだ。
出会った人によって、
運命が変わっていくといっても
過言ではない。
考えてみれば、
物心ついた時、
親との出会いから運命は変わる。
どんな親元に生まれるか。
どんな親に育てられるかで、
人生の大きな方向づけは
決まってしまう。
その後も幼稚園の先生・生徒、
学校の先生・生徒で、
さらなる人生の方向が
決まってしまう。
社会に出てからは、
生き抜くということにおいて、
人との出会いは大切になる。
つまり、
人生で出会う人の
ほとんどすべてが、
運命を変える人。
もっというと、
運命をつくる人ともいえる。
だからこそ、
人のとの出会いを
大切にしたい。
これから出会う人は、
自分の運命を握っている。
そう思うと
人を大切にできる。
元より、いま、
日常の一部になってくれる人は、
運命を導いてくれる人。
そのことを忘れてはいけない。
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