リカバリーはチャンス

 

(今日のコトバ)

 

混乱とは、

チャンスが縦横無尽に

飛びかかってくること。

 

 

出来事のどこかで

混乱は起きる。

状況としては

良くない場合が多いが、

別の角度からみると、

大きなチャンスになることもある。

例えば、ミスをして混乱しているが、

その後のリカバリーで大車輪の活躍し

評価を上げた。

結果、次の新しい仕事を競合なしに

受注した。

などという話しも聞く。

混乱をただのもめ事と考えるより、

リカバリーすれば評価を上げると

思えば、モチベーションも上がる。

だから、

混乱を避けてばかりではいけない。

混乱の中に身を置いて、

チャンスを捉える。

そんな気持ちで生きてもいいと思う。

人生は夢の二本立て

 

(今日のコトバ)

 

人生は、

夢の上にそびえたつ夢である。

 

 

そもそも人が生きているのは、

夢のようなこと。

生きる毎日が、夢だったり、

奇跡だったりの連続。

そして、人は生きるという夢の上に、

さらに、夢を描き実現しようとする。

つまり、人生は夢✖夢。

なんと素晴らしいことだろうか。

一つの夢ではなく、

基本に夢があって、

その上で夢を目指している。

だからこそ、

いまを生きることを

あたりまえだと思わず、

夢の中で夢を築いていることを

たしかめながら生きていこう。

人の人生の夢は二本立て。

そんな気持ちで生きていけたら、

もっと人生は

愛しくなっていくはずだ。

 

光輝く場所へ行く

 

(今日のコトバ)

 

あなたが光らないのは、

光ある場所に行かないからだ。

 

 

自分が光輝きたい。

そのために日々切磋琢磨して

生きている。

だが、なかなか光輝かない。

それはなぜか?

自分への磨きが足りないこともある。

自分への磨き方が

わからないこともあるだろう。

ただ、それと同じぐらい

考えるべきなのが、

自分が光輝く場所にいるかになる。

どれだけ自分を磨き上げても、

その輝きが生きる場所でなければ

意味がない。

光輝いていても、

その場所では必要とされない。

つまり、価値にはならない。

そうなると、

人から見つけられることもないし、

自分を大きく

生かすことにもならない。

だからこそ、

自分を磨き続けることと同時に

自分が光輝く場所を探す。

そのことを常に意識して

自分の目標へ向かう。

忘れてはいけないことだ。

本音をいえる休息所

 

(今日のコトバ)

 

本音は臆病者だから、

最後の最後まで顔を出さない。

 

 

人は「自分」を隠す生きもの。

態度でも隠すが、

いちばんは言葉。

普通の生活の中で、

本音だけで生きている人は

皆無といっていい。

どこかに隠し事や脚色がある。

だが、本音は人生が辛くなると、

簡単に吐けるようになる。

苦しい状況がしんどくて、

お酒を飲んだ勢いで、

本音は吐き出される。

だとすれば、

その少し前に本音をいえる環境、

あるいは、本音をいえる人をつくる。

最後の最後まで隠してから吐き出すと、

助けてもらうにも、

大変な作業になってしまう。

人は本音を持って生きている。

そのことを忘れず、

本音をいえる環境と人を常に持つ。

人生という長い旅には、

必要な休息所だ。

 

新しい存在価値

 

(今日のコトバ)

 

引きこもりのヒーローがいて、

落ちこぼれのカリスマがいて、

ポンコツのモンスターがいる。

時代は変わっていくのだ。

 

 

昭和、平成、令和。

時代は速度を上げて進んでいく。

昭和のあたりまえは、

平成のあたりまえではなく、

平成のあたりまえは、

令和のあたりまえではない。

一年前のテレビドラマ

「不適切にもほどがある」みたいに

昔と今を比較してみれば良くわかる。

オタクという言葉だって、

昭和のオタクのイメージと

令和のイメージするオタクは相当違う。

だからこそ、

今の自分が何者であってもいい。

その道を極めていけば、

新しい存在価値として認められる。

「自分なんて、、、」などと思わず、

自分の実力を磨いていく。

そのことを忘れず生きていこう。

悩んだ先に行動がある

 

(今日のコトバ)

 

考え過ぎは、行動が渋滞する。

 

 

ちょうどいい悩みなどない。

少し悩み過ぎ、深く悩み過ぎ、

あまり悩まなさ過ぎ、、。

悩みの振れ幅は大きい。

ただ、あまりにも悩み過ぎ、

考え過ぎは、ちょっと問題だ。

何が問題かというと、

行動に差し障るということ。

たいてい悩み過ぎ、考え過ぎの人の

足は止まっている。

前へ進もうとしていない。

結果、悩みから解放されない。

良くない循環になってしまう。

悩みが晴れれば、

考えが解決できれば、

行動することも苦にはならない。

だからこそ、

悩み過ぎ、考え過ぎにならないように、

どこかで区切りをつける。

もちろん、研究開発のように、

時間のかかるものもある。

だが、人生の一般論として、

悩み過ぎ、考え過ぎは区切りをつける。

時間でもいい。人と相談してもいい。

長過ぎると、

人生にいい影響を与えない。

とにかく、悩んだ先に、

考えた先に行動がある。

その気持ちを忘れずに生きてみる。

大切なことだと思う。

傑作にあきらめはない

 

(今日のコトバ)

 

駄作といわれる作品には、

どこかにあきらめが描かれている。

 

 

傑作といわれる

卓越した作品がある。

高い評価を受け、

大きな感動を呼ぶ。

映画などでは記憶している人も

多いだろう。

ただ、中には駄作と呼ばれて

人の記憶から忘れ去られた作品もある。

発表はされたものの

人から酷評を受けたもの、

人から忘れ去られたものもある。

では、傑作と駄作の違いはなんだろう。

監督が素晴らしい。脚本が秀逸だ。

キャスティングが見事。制作費が潤沢、、。

傑作の理由はいくらでもある。

駄作の理由は

その反対であったともいえる。

ただ、駄作に関しては、

それだけではない気もする。

最初は、きっと作品をつくるにあたって、

熱意はあったのだろう。

だが、作品のどこかにあきらめのような

ものがうかがえる。

コミュニケーションを拒否したり、

伏線を回収しきれていなかったり、

トーンが途中で変わってしまったり、、。

作品制作にはいろいろな事情があって、

言い訳をしたいこともあるだろう。

だが、やっぱり作品は最後まで全力を尽くすもの。

もちろん、観客に謎を残して終わる作品もあっていい。

でも、そこでコミュニケーションを無視すると、

もっというと、

コミュニケーションをあきらめてしまうと、

傑作への道は遠い。

誰もが駄作をつくろうとしているわけではない。

だからこそ、傑作にしたいなら、

あきらめるを捨てること。

最後の最後まで全力を尽くして

作品に挑む。

その意志が大切だ。

奇跡が毎日

 

(今日のコトバ)

 

奇跡も毎日続けば

あたりまえになる。

「生きること」さえ、

あたりまえになるのだ。

 

 

 

奇跡。

それほど出会うことのない

出来事だと思って生きている。

たしかにそうかもしれない。

連日、奇跡に出会っていたら、

人生の考え方も変わるかもしれない。

だが、視点を変えて奇跡を

考えてみると凄いことになる。

「生きること」

そのすべてが奇跡と考える。

例えば、出会う人も奇跡。

例えば、おいしい食事をするのも奇跡。

例えば、優しくしてもらうことも奇跡。

例えば、医者に病気を治してもらうのも奇跡。

例えば、誰かに愛されるのも奇跡、、。

そう考えると、

一日の中でも奇跡はたくさんある。

だとしたら、

生きること全般を奇跡と設定してみる。

一つ一つの出来事が奇跡と思うと、

ほんとうに奇跡に思える。

一日を大切に生きる気持ちになれる。

奇跡が毎日。

そんな気持ちで生きても

いいのではないだろうか。

 

足跡を創っている時

 

(今日のコトバ)

 

足踏みも、また、足跡になる。

 

 

人生、停滞している時もある。

スランプといわれたり、

足踏みといわれたり、

傍目では前進していないように見える。

だが、ほんとうに

前進していないのだろうか。

少なくとも、停滞している時は、

前進しようとあがいている。

前へ進んでいるように見えないだけで、

あらゆるトライをしている。

それをスランプとか、足踏みとかの

停滞を表す言葉で決めつけてはいけない。

もしかすると、あがいている時に

途轍もなく大事な経験を

しているかもしれない。

知識を得ているかもしれない。

倒れない、

倒れても立ち上がる方法を

習得しているかもしれない。

スランプ、足踏み、いいじゃないか。

もし、その言葉が自分を後ろ向きにするなら、

「いまは、足跡を創っている時」と

言葉面を変える。

足跡を創っていると思えば、

生きる意欲も湧いてくる。

スランプも、足踏みも、

自分の大きな財産になると思えるはずだ。

結果より過程を大事にしてくれる人

 

(今日のコトバ)

 

結果をほめてくれた人は

忘れない。

だけど、過程をほめてくれた人は、

もっと忘れない。

 

 

一生懸命がんばって、

結果が出た。

その時、称賛をしてくれた人がいる。

まわりにいた人は

みんな称賛してくれたかもしれない。

称賛してくれた人は、

最初はみんな覚えているが、

時間の経過と共に、

忘れてしまう人もいる。

だが、結果ではなく、

途中の経過をほめてくれたり、

途中で叱咤激励してくれた人は、

絶対に忘れない。

何者でもない自分が不安の時、

「それでいい、がんばれ」と

いってくれた人は、

忘れることができない。

結果は大事だが、

それ以上に過程が

大事なことが心に残る。

世知辛い世の中で、

結果ばかり追う人生だが、

だからこそ、

過程がもっと大切になる。

そんな気がするのだ。