偉そうな言葉にご用心!

 

(今日のコトバ)

 

偉そうな言葉は、

「お前がいうな」で出来ている。

 

 

誰もが耳にすることがあるだろう。

偉そうな言葉。

上から目線だったり、

偉人の名言を

自分の言葉のようにいったり、

人をバカにしたりする言葉、、。

だが、なぜ偉そうな言葉かと考えると

一つのことが思い浮かぶ。

それは、「お前がいうか?」という

気持ちになること。

言葉を発する人が、

その言葉のようなことができているか?

どの立ち位置から発言している?

そんなことが頭に浮かぶ。

「お前がいうか」から、

「お前がいうな」

という気持ちにもなる。

もっというと、

「お前自身ができないだろう?」

と思ってしまう。

だからこそ、

人にちょっとでも

偉そうなことをいう時は、

自分が出来ているかを

一瞬でいいから考えよう。

みんなに偉そうな言葉だと思われると、

返り血を浴びてしまうこともある。

啓蒙、注意、教え、、

いろいろな言葉があっていい。

ただ、偉そうな言葉は慎重に伝えよう。

チェック機能として、立ち止まること

 

(今日のコトバ)

 

立ち上がらなければ

いけない時がある。

立ち向かわなければ

いけない時がある。

そして、立ち止まらなくては

いけない時がある。

 

 

「倒れるたびに立ち上がる者が勝つ」

先人はよくいっている。

「何事も立ち向かわなければ打開しない」

そう気持ちを鼓舞してくる人もいる。

立ち上がる。

立ち向かう。

どちらも大切なことだ。

人生の輝きを増すためにも、

必要なことでもある。

ただ、忘れてはいけないことが

もう一つある。

それは、立ち止まること。

なんでもかんでも立ち上がり、

立ち向かうだけでは、

自分が壊れてしまうかもしれない。

立ち上がる、立ち向かうことだけで

人生を設定してしまうと、

それができなかった時、

自分を非難してしまうかもしれない。

だからこそ、

立ち上がる、立ち向かうと同じぐらい

大切なことを忘れてはいけない。

それは、立ち止まること。

やり過ぎる時、

行き過ぎる時もあるだろう。

その時、立ち止まって、

現状の自分を見つめ直してみる。

自分が壊れてないかを

チェックする。

チェック機能として

立ち止まることは必要。

絶好調の時は、

猪突猛進でいい時がある。

波に乗ればいい時もある。

だが、その時の自分を

冷静にチェックできる自分の目も

養っていく。

強く生きるために

大切なことだ。

人への尊敬を忘れない

 

(今日のコトバ)

 

あの人も一生懸命。

あの人も一生一度。

そして、あの人も一生人間。

 

 

対人間である。

すべてにおいて最終的に

人間と向き合いながら生きていく。

だからこそ、

一人一人を尊敬する。

誰一人、懸命でない人はいない。

誰一人、一生が二度ある人はいない。

生きるという大変な仕事を

毎日続けている。

そこを忘れずに人と向き合っていく。

何もすべて重く考えるのではなく、

尊敬して人と付き合っていく。

それだけで、自分がどれだけの人と

付き合っているか。

どれだけ人の力に

支えられているかがわかる。

自分のまわりにいるすべての人を

尊敬していこう。

伸びしろとは、期待に応えていく行動

 

(今日のコトバ)

 

目標ができると、

背伸びが伸びしろになる。

 

 

一つの目標がある時の自分と、

目標がない時の自分を

比較するとわかる。

目標がある時は、

とにかく意欲的になる。

何事もポジティブになり、

前へ進もうとする。

その気持ちだけでも

伸びしろになる。

前進する気持ちがあるか、

ないか。

その気持ちの期待に応えていく行動。

それが、伸びしろ。

だとすれば、

つねに新しい目標を持つことは、

つねに伸びしろができることになる。

「伸びしろがある人生」

そう思いながら生きていければ、

こんなに楽しいこともない。

人生は一度きり。

伸びしろと共に人生を歩む。

生きるために大切なことだ。

「できる」というキラーワード

 

(今日のコトバ)

 

「できる」といってしまえば、

あなたに人は集まる。

「できない」といってしまえば、

あなたから人は去る。

 

 

言葉ひとつかもしれない。

「できる」と意思表示をしたら、

その後の人生が変わっていく。

「できる」といえば、

自分のフル稼働がはじまり、

発注してきた人も

何かしら動き出す。

自分と発注者が両輪となって

世の中に打って出る。

また、ネットワークとして

必要な人脈も動き出す。

大げさにいえば、

人生を左右していく。

反対に、

「できない」といってしまえば、

その場から人は去っていく。

自分の責任もなくなるが、

発注者を含め関係者が

そこから去っていく。

ただただ寂しい時間が流れていく。

どちらがいいワルいではない。

ただ、人生を変えたいと思うなら、

「できる」というキラーワードがある。

その一言が人生を変えるきっかけになる。

そのことを忘れてはいけない。

 

 

チャンスまで逃す遠慮は避ける

 

(今日のコトバ)

 

遠慮とは、自信からの逃亡である。

 

遠慮とは、

「いや私はいいよ」と

言葉・行動をひかえること。

また、「私は参加したくない」と

意思表示をすることでもある。

ただ、人生において

遠慮ばかりしていると、

出会うべきチャンスも逃してしまう。

チャンスは、玉石混合、

清濁併せ呑まなければ

つかめない。

遠慮をしていると、

なにもかも遮断してしまう。

さらにいえば、

遠慮することは

自信がないからということもある。

自信がないから、

「私は結構です」といってしまう。

自信があれば、

「私がやります」と遠慮の必要はない。

だからこそ、

遠慮する時は注意しよう。

そこにチャンスがあるかもしれない。

それでも避けてしまっていいか。

また、自分が自信がないから

遠慮してないか。

一度、自分で判断してから

遠慮するかしないかを決める。

一度きりの人生、

チャンスまで逃す遠慮は

避けた方がいいと思う。

強敵と無敵の間でがんばる

 

(今日のコトバ)

 

過去の自分は強敵。

未来の自分は無敵。

 

 

「昨日の自分を超えろ」

「ライバルは過去の自分だ」

特に、個人の記録に挑む時、

指導者から発せられる言葉だ。

その通りではあるが、

がんばって生きてきたら、

過去の自分を超えるなど至難の業。

大変な努力が必要となる。

ただ、こう考えることもできる。

「未来の自分は無敵」だと。

まだ、挑戦は始まっていないのだから、

自分がどれだけできるかわからない。

もしかすると、過去より、現在より、

成長した自分になれるかもしれない。

可能性は無限大だ。

そう考えると、

「過去は強敵だが、

未来は無敵なのだ」と

設定してしまう。

強敵と無敵の間でがんばる。

そんな気持ちで生きていけたら、

人生のやりがいもわく。

生きるために、

自分をもいいライバルにして

みるのはどうだろうか。

少し抑えるだけで

 

(今日のコトバ)

 

プライドの高さを少し低くして、

意地の悪さを少し良くして、

気の強さを少し弱くしたら、

世の中、少し生きやすくなった。

 

 

わざわざ人生を

生きにくくしている人がいる。

プライドが高すぎて、

腹が立つ人。

意地が悪いから、

近づきたくない人。

気が強すぎて、

コミュニケーションに困る人、、。

まわりにそんな人が

まわりに必ずいるはずだ。

だが、何かの課題がある人も、

少し意識して普通の状態にしてくれると、

いい付き合い方ができることもある。

プライドの高さをひけらかさない。

意地悪をしないようにする。

気の強さからくる主張を控える、、。

どれかに該当する人は、

それを意識して抑える。

すべてに該当する人は、

全体的に抑えてみる。

人は変わらないともいうが、

意識することで

抑えることはできるはずだ。

一度きりの人生。

人と気持ちよく付き合える方が

楽しい。

そう考えると、

人から敬遠される癖は治して、

楽しい人生にした方がいいと思う。

 

たくさんの人に支えられている

 

(今日のコトバ)

 

人生は荒波ばかりだから、

助け船に乗って渡ってもいいんだ。

 

 

人には人の人生があって、

自分のために支えてくれる人は

限られてくる。

その中で、何十年も生きていく。

簡単なことではない。

くじけることもある。

弱音を吐きたいこともある。

逃げたいことだってある。

だからこそ、

自分のために

支えてくれる人を

つくっておくべきだ。

まずは肉親。

やっぱり血がつながっている人は

強い力で支えてくれる。

次に身近な人。

遠くの親戚より、近くの他人。

人として温かい人もいる。

また、病院の先生・看護師さん、

学校の先生・友人、

会社の同僚、上司・部下、

趣味の付き合いのある人、、。

考えたら、

たくさん支えてくれる人がいる。

その人たちの助け船に乗って、

生きることも

長い人生を生き抜く秘訣。

人は人に支えられて生きている。

そのことを忘れてはいけない。

 

ルールは、ルールの必要な人のために

 

(今日のコトバ)

 

ルールはつくった者のためにある。

ルールは破った者のために変更される。

ゆえに、ルールは守る者のために

あるのではない。

 

 

ルールは誰のためにある?

それはルールが必要な人のため、

ルールを守る人のためにある。

だが、本当にそうだろうか?

そもそもルールはつくった人たちが、

自分たちの都合のいいように

できている。

当然、自分たちにとって快適で、

守ることに意味がある。

そのルールも時間が経つと

守らない人たちが現れる。

反抗的な人や都合のワルい人が、

ルールを破ってわる目立ちをする。

ルールの守れない人が

数多くなってくると、

ルール変更がなされる。

当然、元のルールより

規則が厳しくなって、

よりルールの中にいる人は

息苦しくなる。

ルールはつくった人たちのもの。

そして、

ルール変更はルールを

破る人たちのもの。

そう考えると、

ルールをきちんと守っている人は、

自分たちのために

ルールが機能しているといい難い。

守っているのが

バカバカしくなってくる。

自分たちにとって

意味をなさないルールは

価値がない。

となると、

そのルールのある状況から

降りてしまう。

だからこそ、

ルールは、

ルールが必要とする人のために

機能することを

考えなければならない。

少しずつルールを改良していくとか、

期間を決めて見直すとか、

それこそルールをつくる。

ルールは、

ルールが必要な人のために

役に立たなければならない。