コンテンツへスキップ
(今日のコトバ)
いちばん近くにいるのに
届かない声がある。
自分の声である。
人の声に耳を傾ける。
世の中に生きていると、
必然、偶然に関係なく
声を聞かざるおえない。
意外と人間は、
人の声に耳を傾けることは、
高い能力を発揮していると思う。
ただ、自分の声はどうだろう。
それこそ声に出して
発信しないから、
聞くことがあまりないのでは
ないだろうか。
自分の心の声を、
いつもいつもきちんと
聞いているという人は
少数だと思う。
だが、人は感情の生きもの。
愚痴や本音、弱音などの声を
どこかで吐き出さなくては、
嫌なものが心に溜まってしまう。
生きる意欲が欠けてしまう。
そう考えると、
自分の声に耳を傾けて、
いつでも吐ける状況を
つくることも大切。
自分の声を溜め過ぎないで
吐き出していく。
人生を
気持ちよく生きていくために
意識したいことだと思う。
(今日のコトバ)
生きることが
面倒くさくならないように、
背負った荷物を少しずつ
降ろしていこう。
あまりにも人生の問題を
抱え過ぎてしまうと、
生きることが重みに
耐えられなくなる。
重みが辛さになり、
苦しさや悲しさに
なることさえある。
体力もメンタルも停滞して、
生きることが
しんどくなることもある。
そう考えると、
人生の問題を
抱え過ぎないで
生きていくことが大切。
よく考えてみると、
どうでもいいことが結構ある。
明日になって
忘れてしまうようなことを、
いつまでもクヨクヨしながら
考えることはない。
自分で基準を持って
忘れていくべきものを
増やしていく。
人は元々、忘れていく生きもの。
必要性がなければ
忘れられる。
こまめに忘れていく。
それだけで、人生が随分楽に
なるはず。
とかく、面倒くさい
世の中になっていく。
忘れていいものは、
どんどん忘れていけば
いいのだ。
(今日のコトバ)
人生に代打なんて
いないというけれど、
世の中に代打なんて
いくらでもいる。
心配するな。
自分の速さで生きろ。
昔の上司はよくいった。
「お前の代打はいない。
絶対にお前がこの仕事を
完結しろ」と。
いまならパワハラに近い言葉だが、
平気でこんな言葉をいう人がいた。
そして、この年齢になって思う。
代打はいないくない。
いくらでもいると。
特に、仕事の場面では、
突然、本人がいなくなったら
困ることは困るが、
誰か代打がフォローできる。
これまでのすべての仕事は、
誰かがフォローしてきたから、
仕事は続いてきたのだ。
もちろん、人間関係の中で
他の誰かでは
ダメなこともある。
ただ、それも限られる。
そう考えると、
代打がいないと思って
焦って生きることより、
自分の速さで生きることが大切。
自分を大切にして、
自分の道をしっかり生きる。
誰かの速さで生きない。
それこそが、
自分を代打にしないで
生きることなのだと思う。
(今日のコトバ)
何度、
「そばにいるよ」と
いわれただろう。
何度、
「そばにいるよ」と
いっただろう。
いわれた数だけ強くなり、
いった数だけ優しくなった。
どれだけ人に
支えてもらっただろう。
人生が困難な時、
いろいろな人に支えてもらった。
家族、恋人、友人、先生、先輩、
同僚、後輩、、。
その人がいるから、
いまの自分があると
思うこともある。
反対に、数は少なくても、
誰かが困った時、
自分が支えたことも
あったと思う。
その人のためにと
力を発揮した。
人間社会とは、
支え合いでできている。
自分の欠けたところを
誰かに補ってもらう。
誰かの欠けたところを
自分が補う。
そのことを忘れずに
生きていけば、
人間として強くなり、
人間として優しくなれる。
人間社会で
役立つことができるのだ。
(今日のコトバ)
目覚めて今日になっていたら、
朝一番の幸せを
もらったことになる。
目覚めた。
今日一日が始まる。
また、今日一日、
人生を楽しめるのだ。
能天気のように書いているが、
結構本気で書いている。
昨日までをリセットして、
今日に取り組める。
人生は一日という時間をくれた。
この一日は、幸せや楽しいことを
更新してくれる。
生きることが
素晴らしいことだと思える。
もちろん、
嫌なことや不幸だと
思うこともある。
それでも、生きていけることは
人生にプラスが多い。
だからこそ、
朝、目覚めたら幸せをもらったと
喜んで起きてみよう。
一日を機嫌よく
スタートできるはずだ。
(今日のコトバ)
「もしも」という言葉は、
希望でできている。
いろいろな言葉がある。
その中で
いちばん未来を予感させる言葉は
何だろう。
思いつくのが
「もしも」
「もしも何々だったら?」
そう思うと想像が膨らむ。
継続性の気持ちも伝わる。
生きていく毎日の中に
「もしも」があったら、
何と未来志向なのかとも思う。
振り返って、
自分の人生に「もしも」はあるか。
もしあるなら、
自分はいま未来に
動いているといっていい。
反対に、「もしも」がなければ
人生が停滞している
可能性がある。
だからこそ、
「もしも」がある人生を
送っていきたい。
「もしも」と思うことがあれば
自分は未来志向にある。
前向きに生きていると
いっていいのだ。
(今日のコトバ)
「大丈夫!」の言葉の裏で、
悲鳴が右往左往している。
いつもニコニコしている。
いつも明るくしてくれる。
「大丈夫!大丈夫!」と
笑っている。
ただ、そんな人でも、
実生活になれば、
辛いこと、
悲しいこともあるはず。
決して顔では見せないが、
「しんどいな」と
思っていることもあるはず。
もし、
自分に優しさがあるとしたら、
その裏の顔というか、
本音のところをすくってあげて、
相手を思いやることも大切だ。
生きている人で、
しんどいことのない人などいない。
そのしんどさを
少しでも分かちあってあげれば
救いなることもある。
「誰かの本当のつらさを
わかってあげる」
自分だけで
生きていけない世の中で
大切なことだと思う。
(今日のコトバ)
一秒、一分、一時間、
一週、一年、そして、
一生を生きていくと、
同じ生きものの人間が、
まったく違う
生きものになっていく。
一生とは凄いものだ。
人間が同じように生きても、
まったく違う人間として
進化する。
同じような学歴、
同じような仕事、
同じような環境、、。
なのにまったく異なる
生きものになる人間。
遺伝もあるだろう。
環境は同じでも
出会った経験が
違うこともあるだろう。
もちろん、性格もある。
だが、人間は
まったく異なる生きものに
なっていく。
不思議だ。
知能が発達した生きものだからか、
世の中という舞台で、
人間の数だけ
異なった配役が用意される。
どうしてかはわからない。
ただ、異なるということは、
人と違った部分があるということ。
違った部分には才能が宿っている。
その才能を活かして生けるのは
人間の特権。
その特権を有効に使って
生きていきたいものだ。
(今日のコトバ)
悔しが本能を目覚めさせたら、
敗北もまた成功である。
負けた時の悔しさは、
人生の悔しさのベストを
選ぶ時、必ず入ってくる。
誰の人生でも
目標を設定したら、
勝負という戦いが待っている。
その戦いで負けたら、
最高の悔しさを感じる。
その時ほど
気落ちすることもないが、
本能として勝ちたいと
思うこともない。
この本能を感じることは、
生きていてそうそうない。
勝ったり、成功したりしても、
本能を感じることは
あまりない。
悔しさの中にある本能を
感じるには敗北が一番だ。
そして、悔しいと思って
本能が動き出して、
勝ちたい、
成功したいと思ったら、
その人間の人生として
素晴らしいことではないか。
悔しさという本能を生む敗北。
それは人生の宝物。
そう思って生きれば、
敗北も自分の武器になる。
(今日のコトバ)
マイナスの状況は、
プラスの情熱を発電しやすい。
毎日生きていると、
マイナスの状況に陥る日もある。
どんなに前向きな考え方の
持ち主でも、
状況は厳しいと思う。
そんな時、
ふと思うのが
マイナス状況の時ほど、
自分のエネルギーを使う。
言葉を選べば、
プラスのエネルギーで
挑んでいるともいえる。
だからこそ、
マイナスの状況を
マイナスに捉えるのではなく、
プラスのエネルギーを発電するには
いいチャンスと考える。
追い込まれた時、
自分がどんな力を発揮するか。
そのエネルギーの源泉に
マイナスの状況がある。
そう思って
生きてもいいと思う。
Scroll Up