人の気持ち理解する

(今日のコトバ)

 

チャンネルを合わせるだけで、

人生はよく見える。

 

 

観点がぼけていたり、

立ち位置が違っていたりすると、

物事の本質は見えてこない。

だが、本質がそれほど難しい問題かというと、

実は簡単な問題だったりする。

観点を捉え、正しい立ち位置に立てば、

「なーんだ、簡単じゃん」となる。

他人の言葉や噂のレベルだけを信じずに、

自分で正しいと思うべき方向を探る。

アンテナを張り巡らせ、

チャンネルをあわせる。

それだけでいい。

ただ、このチャンネルの合わせ方が問題だ。

むやみやたらに合わせても、

混乱するだけになる。

できれば、人の気持ちを理解する努力をして、

アンテナを張る。

つまり、人心掌握術に近い能力を

常日頃から訓練して養う。

この一点が優れていれば心配はいらない。

生きるめのチャンネルは合ってくる。

ポイントをはずさないで、

自分の人生を歩んでいけるはずだ。

夢中の力で自己ベスト

(今日のコトバ)

 

ベストは、ビッグウェーブの上にある。

 

 

どこがベストだったのか。

いつも考えるのだが、

自分にしても、他の人にても、

ベストの絶頂期にあるときは、

気づかずにいるのではないだろうか。

もっというと、大きな波に乗って

まだまだ行けそうなときこそが頂点であり、

一度その頂点から落ちてしまうと、

簡単に元に戻れる気がしているのに、

結果的にはどんどん戻れなくなる。

次第に戻ろうとする努力もあきらめ

「あのときが僕のピークだ」などと過去形で語ってしまう。

ベストとは、夢中でいるときに通り過ぎてしまう状態なのだ。

ということは、夢中でいれるときこそが

自分のベスト記録を出せるということもいえるのではないか。

ならば、夢中になるものを、夢中になる時間をつくろう。

夢中になれることに、熱中できれば絶頂期はまだまだやってくる。

夢中の力を借りて自己ベストを更新するのだ。

本物の人間力を尊敬する

(今日のコトバ)

 

尊敬されて生きるということは、

着飾って生きるより美しい。

 

 

数々の実績がある。生きてきた道も素晴らしい。

発言も一言一言含蓄がある。

こんな人の下で教えを受けたい。

こんな人と共に人生を歩みたい。

尊敬できる人の概念とは、

そういったことだろうか。

だとすれば、いま、一番尊敬という概念に当てはまるのは、

サッカー日本代表オシム監督ではないだろうか。

ユーゴスラビアをワールドカップでベスト8に導き、

ワールドカップ以降引き受けた監督では必ずチームを優勝に導いている。

ユーゴスラビアという国が内戦はじめ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、

セルビア・モンテネグロ、クロアチア、スロベキアなどに分割され、

故郷を失っても、サッカーの夢をあきらめない。

激動の人生経験から培った言葉ひとつひとつにも重みがあり、

耳にする人に深い感銘を与える。

尊敬とは、それぐらい重みがあるものかもしれない。

ただ、聖人君子にならなくても、オシム監督になれなくても、

自分の人生でコツコツと実績をつくる。

自分で信じた道を一歩一歩着実に歩く。

自分の言葉に責任をもって発言する。

そのことを肝に銘じるだけでも、

尊敬は生まれてくるはずだ。

かっこだけで尊敬できるとか、

中身のない美しさを尊敬する前に、

本物の人間の力を尊敬しよう。

正しく尊敬できれば、自分の人間力はもっとあがる。

仮にあがらなくても、尊敬されるという目標ができる。

人が尊敬できたら、人生はもっと素晴らしいじゃないか。

人に尊敬されたら、人生はもっと豊かになるじゃないか。

尊敬は、人生の大切なペースメーカーなのだ。

 

オシム・ジャパンはアジアカップでイエメンに、

2対0で勝利した。まだまだ連携はスムーズではないが、

この試練の中からサポーターが尊敬できる「日本化したサッカー」を

つくりあげてもらいたいものだ。

欲望のために立候補

(今日のコトバ)

 

「もっともっと」といったから、

多めにもらえたのだよ。

 

 

遠慮もたまには必要だけれど、

基本的には願望・希望を全面に出す方がいいと思う。

欲しいという意志表示がなければ、

人はモノをくれないし、

たくさん欲しいといえば、

在庫次第で数多くモノをくれるかもしれない。

ひかえめに、遠慮がちなポーズをとっていると、

ほとんどの場合損をする。

モノだけではなく、人生のあらゆる場面で、

欲望を理解させるか、させないかは、

手に握れるか、握れないかに匹敵する。

そう、「欲しい」「やりたい」という意志を提示するのだ。

人生は、何事も欲望のために立候補することからはじまる。

大切な誰かの手

(今日のコトバ)

 

手を差しのべてもらったことを、

すぐ忘れてしまう人間の手。

 

 

誰かに助けてもらったことを、

きちんと憶えているだろうか。

自分自身に置き換えてみると、

助けてあげたことは憶えているが、

助けてもらったことはよほど大事なことしか

憶えていないような気がする。

「あんなにしてあげたのに、、、」とは思っても、

「こんなにしてもらって、、、、」とはなかなか思わない。

だが、何十年と生きている以上、

誰の手も借りずに生きているはずがない。

愚痴を聞いてもらったことはないか。

弱音を吐いたことはないか。

お金を貸してもらったことはないか。

手伝ってものを運んだことはないか。

情熱をもらったことはないか。

勇気をもらったことはないか。

夢をもらったことはないか。

今日まで生きてくるのに力をもらったことはないか。

ほんの少しでいい。目を閉じて思い浮かべてほしい。

どんなに不幸だと思っても、

どんなに一人で生きていると思っても、

あなたは「大切な誰か」に支えられて生きてきた。

その気持ちを忘れずに生きてほしい。

誰かの手に引かれなければ、

人は成長できない生き物でもあるのだから。

太陽は心も殺菌する

(今日のコトバ)

 

晴れた日には、心も洗濯しよう。

 

 

東京は今日、思いっきり晴れ渡った。

今年は梅雨が長く、昨日も猛烈な雷で大雨が降り

スカッとしない日が続いたので、

今日の太陽は夏を満喫させてくれた。

晴れた日は、無条件で気分を良くしてくれる作用がある。

少々不愉快なことがあっても、外に出て散歩でもすれば、

落ち込んだ気分もまた回復するものだ。

太陽は洗濯物を乾かすだけでなく、殺菌作用もある。

この殺菌作用は、もしかして心にも効き目があるのかもしれない。

ただ太陽の下を歩くだけで機嫌が良くなり、元気が出てくる。

心にある悪玉菌を太陽が殺菌して、

モチベーションがあがる善玉菌を増やしてくれている気がする。

あまり長時間、太陽の下を歩いていると熱射病になるが、

朝の散歩やちょっと汗をかくぐらいのウォーキングは、

心のバランスを調整し気分を良くしてくる。

晴れた日は、外に出て心を洗濯してあげよう。

土壇場に支えてくれる人

(今日のコトバ)

 

小さな和の中にこそ、幸せがある。

 

 

自分が賞賛を浴びたとき、

本当に喜んでくれる人はどのぐらいいるだろう。

一時は、拍手をしたり、握手をしたり、抱きついたりしてくるが、

心から祝ってくる人は数少ないと思う。

敵はノーサイドということで握手はしても、悔しいに決まっている。

味方とてまったく同じ賞賛を浴びても、喜ぶ気持ちだけではない。

もっといえば、勝ち組の中にいてもレギュラーではなく、

自分の力を発揮せずに勝利の輪に入っていてたら、

嫉妬や悲しみさえわいてくる。

本当に、心の底から喜んでくれるのは、

身内とよばれ人だけではないだろか。

無償で喜んでくれるのは、家族とよべる人と師、

そして恋人とあとわずかのような気がする。

だからこそ、そのもっとも小さな単位の身近な人を

何よりも大切にしよう。

心の底から結びついてくれる人こそ、

あなたが土壇場になったときに

手を差し伸べてくれる人なのだから。

記憶のチカラ

(今日のコトバ)

 

デジカメは、

人の記憶より美しく昨日を再現できない。

 

 

時に記憶は人生の場面をデフォルメして再現する。

時に記憶はあらゆる時間を大胆に省略してしまう。

どちらかといえば汚い思い出というよりは、美しい思い出に。

どちらかといえば悲しい思い出というよりは、楽しい思い出に。

デジカメよりも、ムービーよりも、プリクラよりも、

都合良く再現する。都合良く編集する。

人間のもつこんなに素晴らしい機能を上手に使わないのは、もったいない。

なんでもかんでも映像に残して、手帳やアルバムにしまうのもいいが、

記憶のチカラというもの大事にするのもいいことだと思う。

記憶は人間が生きるためのドキュメンタリー機器であり、

記憶こそが人生の瞬間を捉え、

生きる道標を設定してくれるのだから。

 

沢木耕太郎の「無名」を読んだ。

著者の父の最期の日々を、無数の記憶を紡ぎながら

辿ったノンフィクションだ。

この作品に描かれている父と著者の日々は、

けして映像で残る親子ではなく、

記憶に残る父と子の目にはみえない物語だ。

それでいながら父をもつ人間なら誰もが共感できる

不変の記憶。映像に残した。だが、そこに何も残らない

人生を感じてる人へ。記憶のチカラが何かを教えてくれる作品だ。

チャンスと信頼は一心同体

(今日のコトバ)

 

人生は、ボールをパスされてナンボだ。

 

 

得点を決めたいけれど、

ボールは自分ではな味方プレーヤーがキープしている。

だが、声をかけても、オーバーなアクションをしても、

近づいていっても、パスは出てこない。

サッカーの試合だけではなく、人生でもこんな場面はあるはずだ。

「オレにまかせろ、絶対決めてやる」

「オレにやらせてくれ、得意なんだ」

「オレにやらせるべきだろう、普通なら」

様々な気持ちでチャンスを呼び込んでも、

自分以外の味方にわたってしまう。

悔しいけれど、どうしようもない。

チャンスをパスされるほど実力がない。

つまり、信頼されていないということ。

チャンスを受け取る人間には、信頼感が必ずある。

自分自身でも何かをまかせようと思ったら、

信頼できる人間から考えるはずだろう。

そう、チャンスと信頼は一心同体なのだ。

チャンスを得ようと思ったら、

まず、日頃から信頼を勝ち取ることからはじまるのだ。

なぜ、「勝ち取る」というのかといえば、

信頼をチャンスという言葉に置き換えられるからなのだ。

遅くはない、いまからでも遅くはない。

信頼を構築できる人生を。

太陽はその先に

(今日のコトバ)

 

フェンスの向こうには、

まだ見たことのない太陽がある。

 

 

扉を開くたびに新しい発見がある。

まだ見たことのないものとの遭遇。

まだ体験したことのない出来事。

感動だったり、驚きだったり、不安だったり、

恐怖だったり、新しいところへ足を踏み入れれば、

新鮮な感情が生まれる。同じ人生を歩むのなら、

毎日とはいわないまでも、新鮮な気持ちで生きていける

人生でありたいと思う。

そのためには、新しい扉を開くことも必要だろう。

壁の向こう側にいってみることも大切なはずだ。

勇気をもって、一歩を踏み出す。

太陽は、その先にあるのだから。

 

本日、オシム監督の初陣だ。

「日本らしいサッカーを追求したい」と

初心表明をした彼の哲学が日本代表の新しい扉を開く。

考えながら走るサッカーで、

最高の日本代表をつくりあげてほしい。

彼こそが日本サッカーの太陽だと信じて。