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(今日のコトバ)
あたりまえという普段着は、
幸せというタグがついている。
年をとればとるほど思うことがある。
「あたりえ」は、
すべて幸せに属すると。
「あたりまえ」
若い頃は、
「あたりまえ」がつまらなかったり、
「あたりまえ」がかっこワルかったり、
「あたりまえ」を良しとしない自分がいた。
だが、年齢が「あたりまえ」ほど
大切なものはないと教えてくれた。
日々生きるために、
「あたりまえ」がなければ、
とてもしんどいものになる。
考えてみても、
「あたりまえ」に
ものごとが過ぎなかった日は、
何倍も疲れた憶えはあるだろう。
それが毎日毎日続いたら、
やっぱりしんどくなる。
若ければ若さで乗り切ることもできるが、
年をとるとそうもいかない。
そう考えると、
あたりまえは大切。
もっというと貴重になる。
人生は幸せになった者の勝ち。
あたりまえが多ければ多いほど
幸せということになる。
だからこそ、
あたりまえは大切なのだ。
(今日のコトバ)
運を手に入れたいなら、
集合時間に間に合うこと。
「その時、その場所にいること」
それが、運やチャンスを手に入れる
大前提になると思っている。
「その場所にいる」
つまり、現場にいる。
何かが起こる時に、そこにいる。
もっといえば、
約束の時間に現場にいる。
遅刻をしないことが大切。
それさえしっかり守っていれば、
運やチャンスはかなりの確率で
自分のものになる。
日頃、運がないとか、
チャンスがないという人は、
とにかく現場に遅刻せず行くことを
守ってみる。
それだけで、
運やチャンスに出会う回数が
増えてくる。
自分の夢に近づくための道が
広がっていくはずだ。
(今日のコトバ)
歴史は年を覚えるために
あるのではない。
教訓を知恵に変えるためにあるのだ。
歴史に学ぶという。
何も、世界史、日本史だけの話ではない。
自分史であっても学ぶことは多いと思う。
生きてきた時間の中で、
経験したことに学ぶ。
つまり、教訓になっている。
ワルいことはワルい。
いいことはいい。
間違ったこと、正しいことを見極める。
悲しまないように、
傷つかないように判断する。
やりすぎとやらなさすぎのバランスをとる等。
様々な教訓を学んできた。
その学んだことを
人生で活かすと知恵になる。
できるだけ、
いい意味で知恵にしていく。
そのために、
学んだら行動に移すことを心がける。
その循環が人生を広げていく。
歴史から学ぶ。
自分史から学ぶ。
人生において重要なことだ。
(今日のコトバ)
「大丈夫」とは、
「大丈夫」といいながら、
ほんとうに「大丈夫」になっていくための
進行形のコトバです。
人は「大丈夫!」という。
「大丈夫ですか?」と聞かれて、
「大丈夫!」と答えるのだ。
ただ、この段階で大丈夫な人は、
ほとんどいない。
相手に気をつかわせないために、
そして、自分に暗示をかけるために、
「大丈夫!」といっている。
大丈夫。
言葉にすると、大・丈・夫と、
なにやら強そうな言葉が並ぶ。
だが、その言葉は、
いつも不安でいっぱいな言葉でもある。
もっというと、確定しない言葉、
まだまだ動きのある言葉、
よくいえば、進行形の言葉なのだ。
そう思って、
「大丈夫!」といっている人と付き合うと、
その気持ちがよくわかる。
凄く辛いけどガマンしている大丈夫なのか、
まだまだやれるという大丈夫なのか、
自分を奮い立たせる大丈夫なのか。
そんな本人の気持ちを理解して、
付き合っていけば
相手の気持ちがよくわかるはずだ。
(今日のコトバ)
あなたという居場所があるから、
みんなが集まってくるのだ。
いつも思う。
「自分」は居場所だと。
誰かが「自分」を当てにしてやってくる。
「自分」がいるから依頼する。
「自分」がいるから安心する。
「自分」がいるから寄り添える。
そんなことを思ってくれる人が
何人かいて、
そのために「自分」が存在する。
もっというと、
「あなた」も自分からしたら居場所。
「あなた」という人に依頼して、
「あなた」という人がいるから安心して、
「あなた」という場所に寄り添う。
つまり、一人一人の個人は、
居場所。
そう思うと、
自分のまわりには
たくさんの居場所がある。
居場所があれば、人は生きていける。
自分の価値にも気づける。
誰かを支えることもできる。
自分が誰かの居場所になり、
誰かが自分の居場所になってくれる。
人生とはそういうものだ。
(今日のコトバ)
悲劇的状況でも、
希望的観測は忘れない。
いつも状況がいいとは限らない。
どうしようもなく不利な場合もあれば、
コンディションがワルい場合もある。
前向きになれなくて、
下を向いてしまうこともある。
ただ、その時思うことがある。
状況は決して味方をしていないが、
何か希望もある。
例えば、奇跡。
例えば、相手のアクシデント。
例えば、突然の状況の変化。
例えば、幸運。。。
自分にとって希望がゼロではない。
そこに前進する芽があったりする。
ほんの少しかもしれない。
自信になるほどでないのはわかっている。
ただ、小さな希望をより所にして、
形勢逆転をした人生経験もある。
だからこそ、
どんな時も
希望的観測を忘れてはいけない。
そう思うのだ。
(今日のコトバ)
私には、「わたしたち」がついている。
どれだけ人に支えられているのだろう。
数えてみるとたくさんいるのに、
日々の暮らしの中で数えることはない。
ただ、自分が生きていくために、
どれだけの人がかかわって、
さらに、支えてくれているかと考えると、
途轍もない数になる。
家族、恋人だけでなく、
会社、学校、趣味、サークル、
行きつけの店、SNS、病院等にかかわる人を
数えると、自分一人でも相当数の人に
支えられている。
もっというと迷惑をかけている。
「自分だけではない、自分たちで生きている」
そう思うと、
もっと強い気持ち生きられる。
もっと前向きに考えられる。
自分には、「自分たち」がついている。
そのことを忘れず生きていこう。
(今日のコトバ)
いつも頭と体に
誤差があることを忘れずに。
「頭ではこうしたいと思っている。
だが、体はそうはいかない」
そんなことが生きていると
たくさんある。
頭のイメージ先行で、
具体的に体の動きが伴わない。
頭と体には誤差がある。
その差を理解しないと、
失敗が多くなる。
「できる」と「できない」の間のギャップで、
心が悩んだり、体が疲れたりする。
生きる軸が定まらなくなる。
人生で誰もが経験するはず。
ギャップがあることを想定していれば
困ることが少なくてすむ。
頭と体は同じではない。
その差はある。
そして、その差を埋めていくのが
人生。
そう思って生きていきたい。
(今日のコトバ)
人生は、
生まれながらに平等ではない状況を、
いかに平等にするかの戦いだ。
平等という言葉がある。
本来は、人類すべてが平等であり、
同じように生きられることが
約束されていれば言葉は機能する。
だが、人は生まれながらに平等ではない。
貧富の差もあれば、能力の差もある。
環境の差もあるだろう。
その中で平等といえるものは何もない。
個人個人みな差がある。
そう考えると、
平等って何だろうと思う。
それは、
みな違う状況に生きるのだけれど、
個々の努力によって、
平等を手にするもの。
もちろん、平等ではなく、
誰よりも頂点に立ちたい、
人を蹴落としたいと思う人もいる。
ただ、それでも平等を意識しなければ、
世の中は生きていけない。
だからこそ、
平等のために生きることを意識する。
そのことで、できる限り
平等な社会をつくる。
人間にとって、
平等は生きるための
ペースメーカーなのだ。
(今日のコトバ)
いつでも、どこでも、
可能性ってやつを持っていろ。
人には、未来がある。
生きても生きても、
命果てるまで未来はある。
人には、希望がある。
生きれば生きるほど、
無限に希望は生まれてくる。
人が前向きになれる理由は、
未来と希望があるからともいえる。
その時、生きる自分はどうだろう。
未来と希望の期待に応えられる状況に
あるだろうか。
後ろ向きだったり、
モチベーションが上がらなかったり、
状態がよくないと、
未来と希望に応えられない時がある。
その時、どうすればいいか。
それは、自分の持っている可能性に
賭けてみるということ。
可能性。
夢といってもいい。
何かができる。
何かをしたいという気持ちを尊重する。
そこから生まれる力を信じる。
思いっきりその力を発揮してみる。
どんな人生にも、
未来と希望がある。
そう思うと、
やる気が出てくるはず。
頑張ろうという気持ちに
なってくる。
未来と希望がある。
そのことを忘れず生きるのだ。
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