違う世界へ行って、言葉から解放される

 

(今日のコトバ)

 

口汚く罵る奴らがいるなら、

頂上まで上ってこい。

奴らの言葉はどん底で澱んでいるだけだ。

 

 

 

批判とか、陰口とか、ワル口とか、

自分の耳に入って

気分の良くない言葉がある。

気が小さかったり、

神経質だったりすると、

気になって仕方がなくなることもある。

では、自分にとって

気分のワルい言葉から、

解放される方法はあるだろうか。

それは、その世界から脱却すること。

同じレベルの中にいると、

どんな言葉も気になってしまう。

だからこそ、

違う世界に行く。

レベルを上げた世界へ行くでもいいいし、

文字通り違う世界を見つけて行くでもいい。

気分のワルくなる声は、

時に、自分自身を失うことになりかねない。

だからこそ、

自分のいる世界を変えて、

人の言葉から解放される。

人生を生き抜くための一つの方法だ。

 

「意識」することを、「意識」する

 

(今日のコトバ)

 

意識は、

人生を生き抜くための

標識である。

 

 

 

「意識」する。

それが人生でどれだけ重要なことか。

わかっているのだが、

いつもいつも「意識」するわけにはいかない。

「意識」するにも体力がいる。

だから、

怠けていると「意識」はしなくなる。

もっというと、怠けることとは、

「意識」しないことともいえる。

「意識」することは、

人生を行きたい方向へ向かわせるために、

とても大事なこと。

「意識」していれば、

人生は行きたい方向へ進んでいくはずだ。

人生は、短い。

より短時間で行きたい場所へ

行けた方が楽しくなる。

だからこそ、

「意識」することを「意識」して、

人生を行きたい方へ進ませていく。

自分の意志でどうにでも

コントロールできる「意識」。

生きるために大切にしたいと思う。

 

 

 

 

人生の武器になる本音と建前

 

(今日のコトバ)

 

人は、

本音と建前の間を

行ったり来たりしながら、

人間になる。

 

 

常に、本音と建前で生きている。

生れて物心がついた時から、

どこかに本音と建前を

使い分けて生きてきた気がする。

大人になるにつれ、

本音より建前が多くなった。

否、建前を使わなければならない

状況が、

増えてきたといってもいい。

だからといって、

建前が多くなるのが、

大人になることとは

いいたくない。

ただ、間違いなく経験を積むと

建前が多くなってくる。

本音と建前。

使い古された言葉だけど、

解明されないで、

人間の心を行ったり来たりする気持ち。

この二つの気持ちを使い分けながら、

人間は人生の荒波を乗り越えていく。

考え方によっては、武器となる気持ち。

この二つの気持ちを大事にしながら

生きていたいと思う。

 

100%の力を発揮して生きる

 

(今日のコトバ)

 

100点は人がつけるもの。

100%は自分が発揮するもの。

 

 

 

人生、何が満点かわからない。

テストであれば、100点をとれば満点だが、

それで終わるとは限らない。

100点以上もあるし、

100点に到達しなくても、

点数としてはトップであることもある。

100点は数字の基準でしかない。

だが、これだけはいえる。

自分が100%の力を発揮すること。

全力で力を発揮して

頑張ることはできることは、

自分にとって満点ではないか、と。

自分MAXの力を出して、

やることをやったら

自分自身が納得できる。

いい成果でなくても、

次へ進むためにリセットして進める。

そう考えると、

100点とることよりも、

100%の力を発揮することの方が

人生において大切なのだ。

だからこそ、

100%の力を出して生きる。

そのことを念頭において、

人生を生きていきたいものだ。

 

人を救うことで、自分も救われる

 

(今日のコトバ)

 

誰かを救うために尽くした力は、

自分の肩の荷を降ろすことに

役立ちました。

 

 

 

困ってる誰かを助けることがある。

いつもではないが、

時に、ある。

その時、思うのだが、

「助けたはずなのに、助けたはずの自分が

救われている」と。

もう少し詳しくいうと、

確かに自分の力が誰かの助けになった。

その助けた人が、喜んでくれた、

感謝してくれた瞬間から、

自分の中の何かホッとする。

落ち着いていく。

そして、自分も喜び、

なぜだか感謝したくなる。

あるアーティストが被災地へ行って、

救済コンサートをした後、

テレビで語った言葉が、

いまでも耳に残る。

「悲しんでいるみなさんを

勇気づけに行ったのに、

勇気づけられたのは自分だった」と。

まさに、自分にも同じ感情が起こる。

アーティストのように、

たくさんの人を勇気づけることは

できないけれど、誰かを助けると、

確かに自分も喜び、感動し、勇気づけられる。

人に何かをしてあげる醍醐味は、

そこにあるのかもしれない。

何かをしてあげた人だけでなく、

何かをした自分も喜べる、勇気がわく。

だからこそ、人を助けることを、

主体的に考えて、行動していい。

「人を救うことで、自分も救われる」

人間はそうできている気がしてならない。

やさしくした後が、やさしさの大切なところ

 

(今日のコトバ)

 

やさしさは、力技でした。

 

 

 

人にやさしくする。

言葉では簡単で、

ちょっとしたやさしさなら、

誰にでもできる。

だが、「ほんとうのやさしさ」とは、

と考えてしまう。

悲しんでいるから、

寂しそうだから、

困っているから、

やさしくする。

ほんとうは、やさしくした後が、

やさしさの大切なところかもしれない

と思う。

言葉だけとか、

一応、同情するとかではなく、

悲しみから立ち直るために、

どんなやさしさを届けるか。

寂しさから抜け出すために、

どんなやさしさを伝えるか。

真摯に、粘り強く、

その人を支えてあげる。

そこまでがやさしさではないだろうか。

自分が辛い時を考えてみればいい。

言葉だけでやさしくされても、

と思ってしまうこともある。

だからこそ、やさしさは、

やさしくした後も大切。

気持ちをこめて、

時間をかけて、

その人を支えていく。

やさしさとは、

そういうものだと思う。

人は、夢と生きている

 

(今日のコトバ)

 

転んだのは、夢を追いかけたから。

倒れはのは、夢に届かなかったから。

傷ついたのは、夢を失ったから。

そして、いま、生きているのは、

夢を持っているのだ。

 

 

どんな人生でも、

夢はある。

大きな夢の人いれば、

小さな人もいる。

人は、

その夢を叶える途中で生きている。

もちろん、夢を叶えた人もいるだろう。

ただ、すぐその後から夢が生まれる。

夢を失った人もいるだろう。

ただ、すぐその後から夢が生まれる。

人は、夢に向かって生きている。

そう考えると、

夢の一つや二つが失われても、

夢が無くなることはない。

夢は、自然発生的な現れる。

人生は、夢でできている。

そんな気持ちで生きればいいのだ。

 

気持ち一つで人生は変わる

 

(今日のコトバ)

 

「だけど」では過去のままだから、

「もしも」で未来を探っていこう。

 

 

 

否定的な気持ちでいると、

上手くいかないことが多くなる。

ネガティブなのだから、

あたりまえとえばあたりまえだ。

反対に、肯定的な気持ちで生きると、

人生は好転していく。

前向きな気持ちが、意欲を呼び起こし、

力をしっかりと発揮できる。

いってしまえば、

たったそれだけのことで、

人生は大きく変わる。

日々、肯定的に生きる。

意欲的に物事に取り組む。

それがどれほどの効果があるか。

自分のまわりの人を見てみるといい。

肯定的な人がどれほど、

人生を好転させているかを。

そして、否定的な人がどれほど、

人生を難しくしているかを。

気持ち一つで大きく人生は変わる。

人間は気持ちの生きものなのだ。

見せたい年齢のように生きよう

 

(今日のコトバ)

 

人は一年で歳をとる人ばかりではない。

一日で老いる人もいれば、

一か月で若返る人もいる。

 

 

年齢なんていうものは、

ただの数字だと思う。

そう思ってるのだが、

年をとると一年一年感じることがある。

「40歳には見えない」

「30歳のわりには老けている」など、

基準はどこにあるかわからないが、

なんとなく

言わんとしていることはわかる。

最近では、90歳でも若く見える人もいる。

年齢の概念も変わってきた。

定年も60歳から65歳になり、

ゆくゆくは70歳になるという。

年齢は、やっぱりただの数字。

くくりやすい数字。

歳をとると、目標が明確にある人と

ない人では、見た目にも差が出てくる。

歳より老いている人もいれば、

歳より若い人もいる。

あるとすれば、

自分がどう見えたいかだけだと思う。

老けて見せたければ、

老いて生きればいい。

若く見せたければ、

若く見せればいい。

ただそれだけのことだ。

 

権力は、不正に感染する病気

 

(今日のコトバ)

 

権力は、

不正に手を染めるという

弱点を持っている。

 

 

 

特に、政治を見ていると、

どうして権力は、

不正と癒着したがるのかと思うほど、

権力=不正になっている。

権力を行使できるようになれば、

少々の悪いことは許される。

否、力があるから悪いことは、

まわりの人が許してくれる。

否、力があるから、

どんな悪いことも正義になる、、、。

まさに、悪循環という構造を持っている。

ただ、政治でない世界でも、

似通ったことは起こる。

会社で肩書きが偉いといわれる人ほど、

不正率は高くなる。

さらにもっといえば、

たいした権力などないのに、

自分よりあきらかに力の弱い者に、

似たようなことをしてしまっている。

「まったくしていない」と

答えられる人はごく少数なはずだ。

そう思うと、

権力という力は、誰もが不正に感染する

病気のようなものといえる。

だとすれば、

その不正に向かわないために、

自分以外のチェック機関を持つことは

必須になる。

権力と不正はセット。

その意識を持って、

つねにチェックできる状況をつくる。

権力をただの悪の権化にしないためにも

チェックは必要。

暴走する権力は悲劇を生む。

そして、誰もが権力を持つと、

自分を忘れてしまう。

そう戒めて生きていきたいものだ。