救いの手はある

 

(今日のコトバ)

 

世の中、

後ろから

背中を押してくれる人がいる。

前から

手を引いてくれる人がいる。

やるべきことは、

あなたが一歩踏み出すだけだ。

 

 

まわりを見渡してみると、

どこかに救いの手がある。

普通に生きていれば、

何とかしてくれようとする

救いの手がある。

親族。親友。仲間。

自治体、ボランティア団体、、。

探せば、

どこかに自分の求めている

救いの手がある。

ただ、救いの手があっても、

自分が動こうとしなければ

救ってもらえない。

手はあるのだ。

後は、

自分の足で一歩踏み出すだけ。

もちろん、

自分の心身の調子が

よくなくて、

一歩踏み出せないこともある。

それなら、

調子がよくないことも

伝えて、

一歩踏み出す行動を起こす。

気持ちさえ伝えられれば、

救いの手はある。

何事もあきらめないで、

「救いの手」を握ってみる。

生きるために大切なことだ。

 

 

目標達成の羅針盤

 

(今日のコトバ)

 

意識とは、目標の化身である。

 

 

何かを意識する。

その意識によって、

生きる方向性が決まっていく。

意識するかしないかでは、

まったく方向性が変わってしまう。

意識した方向は、

自分の行きたい方向。

つまり、目標といってもいい。

だとすれば、

意識は

目標の化身といっていい。

その目標の化身を

いつも頭のどこかに

置いておく。

それだけで、

目標達成への意欲が

大きくなっていく。

意識することが

人生にとって

どれだけ役立っているか。

それこそ意識して、

生きてみることが大切なのだ。

 

 

 

 

強みで助け、弱みで助けてもらう

 

(今日のコトバ)

 

まわりを見てごらん。

似たような顔をして、

似たような言葉を使って、

似たような行動をする人が

集まっている。

 

 

生きる場所には、

知らず知らずのうちに

同じような人が

集まっていると思う。

仕事の場で、学校で、

趣味を楽しむ場で、

目的を同じにすれば、

同じような意志を持った人が

集まっている。

あたりまえといえば

あたりまえだが、

そのことを意識することは

なくなっている。

ただ、同じような意志を

持っていることを

はっきり意識して生きると、

より一層、

心地よく生きられる。

同じような目的を

持っているなら、

同じ目的にモチベーションを

高く行動する。

そこはみんなの強みになる。

反対に目的のないところは

弱みになる。

そこを理解しておけば、

強みで助けることができ、

弱みで助けてもらうこともできる。

なんでもかんでも、

できるできないで

割り切ってしまうのではなく、

強み弱みで考えてみる。

人生において大切なことだ。

 

遠まわりする脚力

 

(今日のコトバ)

 

遠まわりした背中は、

膨大な財産を背負って

帰ってくる。

 

 

近道したい。

できるだけ短期間で

目的地に着きたい。

誰もがそう思う。

だが、人生は簡単ではない。

近道したいと思えば思うほど、

長い道程を歩かなければ

ならなくなったりする。

人生は難しいものだ。

ただ、時間をかけて

道を遠まわりすることが

ワルいことばかりとはいえない。

遠まわりしたからこそ

出会う人・場所があり、

遠まわりしたからこそ

出会う経験もある。

人生を俯瞰で見れば、

遠まわりした経験が

人生を救ったり、

豊かにしていくこともある。

だからこそ、

近道ではない道を

歩んでも、

不貞腐れることなく、

あきらめることなく、

前向きにとらえて

頑張っていく。

必ず遠まわりした経験は

人生の役に立つ。

そう信じて

生きていいと思う。

わからないことがあるから、明日が楽しみになる

 

(今日のコトバ)

 

知り過ぎた不幸もあり、

知らな過ぎた幸福もある。

人間は、知ることの正体を

知らぬまま生きている。

 

 

知識が豊富ということは、

良く学び、

良く物事を

知っていることでもある。

知っているということは、

人生において

有利なことのような気がする。

だが、まわりを見ていると、

そうともいえないことが

散見される。

良く知っているから、

知り過ぎて不安になる。

怖れてしまう。

リスクヘッジなどは、

リスクをヘッジできればいいが、

リスクを知り過ぎたばかりに、

どうしていいか

わからない状態に

なることもある。

リスクを知っただけで、

戦意喪失、

退散ということもある。

反対に、知らないから

不安にならないこともある。

いちいち知り過ぎることもなく、

リスクを考えすぎることもない。

あまり不安にならずに、

「なんとかなるさ」と

無防備に体当たりする。

それがそれほど

大怪我にもならなず

前進していける。

昔流行った

鈍感力に近いかもしれない。

結局、知り過ぎること、

知らな過ぎることの

どちらも一長一短ある気がする。

一生わからない問題かもしれない。

だからこそ、

人生は面白いといえる。

わからないことがあるから、

明日が楽しみになる。

人生の醍醐味とは、

わからないことと

生きることなのだ。

 

近くで幸せを探す

 

(今日のコトバ)

 

幸せは遠くへ行って

見つけるものではない。

いまいる場所で

見つけるもの。

幸せはここにある。

 

 

どこか遠い場所に

幸せを探しに行く。

何となく幸せを

見つけようとすると、

どこか遠くを

イメージする。

だが、どこか遠くへ

幸せを探しに行くのは、

途轍もなく大変な作業。

遠くであればあるほど、

探す時間がかかる。

見つけるのは容易ではない。

幸せをなるべく早く

見つけるには、

遠くでなく、

自分に近い場所の方がいい。

もっといえば、

自分とつながっている場所が

見つけやすい。

自分から近いから、

すぐに判断でき、

幸せをつくるための

行動がすぐにできる。

いま、もっと幸せが欲しいと

思う人は、

自分のまわりに幸せが

ないか探す。

遠くでなくていい、

いまいる場所で探す。

たくさんの幸せが

見つかるはずだ。

 

 

順調でない何かも人生に生きてくる

 

(今日のコトバ)

 

悲しみ、苦しみ、痛みは、

人生を幸せにするための

薬でした。

 

 

生きていれば、

悲しいこと、

苦しいこと、

痛いことが多々ある。

普通に生きているようでいても、

順調ではない何かを抱えている。

ただ、生き続けていると、

それらの順調でない何かを

何とか解決して前進している。

ということは、

悲しいことも、

苦しいことも、

痛いことも、

教訓になって、

人生に役立っているともいえる。

だとすれば、

いま抱えている人生の問題を

前向きに解決していけば、

きっと、

生きていく上で

プラスにできるともいえる。

そう思うと、

いろいろな人生の問題も

前向きにとらえていく。

生きるために、

人生のために、

順調でない何かは

生きてくる。

すべて人生にムダはないのだ。

 

 

得手で幸せになる

 

(今日のコトバ)

 

世の中に自分の持っている

「天才」を差し出せ。

 

 

「どんな人生が一番幸せか」

時々考えることがある。

突き詰めて考えると、

いつも同じ答えに突き当たる。

それは、

自分の得意な分野で生きること。

特に、得意分野を仕事にできれば、

人生は幸せに包まれる。

得意だから上手にできる。

得意だから評価される。

得意だから日々が充実する、、。

すべてが好転していく。

もちろん、得意であっても、

人間関係やしんどい作業も

あるだろう。

それでも、

得意であれば継続できる。

継続できるということは、

その継続期間は

幸せに包まれているはずだ。

人には生き方がある。

まったく

自分の想像できない分野に

飛び込む勇気も大切。

人に決められた道を行くのも

否定できない。

ただ、幸せに生きていくことを

一番に考えたら、

自分の得手で生きる。

そのために時間を割いて、

知恵を絞る。

大切なことだと思う。

 

まだ敗北ではない

 

(今日のコトバ)

 

負け犬とは、

リングで倒れた者ではなく、

リングに上がらない者をいう。

 

 

本当の負けとはどういう状態か。

時々、考える。

勝負に負けた時は、

もちろん敗北感はある。

ただ、本気で戦って、

まだ悔しい気持ちが残っていると、

「負けでは終わらない、

まだまだ続ける」

という気持ちになる。

そんな時は、

負け犬とも思わず、

敗北感に

さいなまれることもない。

闘志が燃え上がり、

今以上の進化を目指し始める。

決して、敗北者にならないのだ。

では、本当の負けとは、、。

それは、

戦うのをあきらめた時のような気がする。

もう戦わない。

勝ち負けなどどうでもいい。

戦う気持ちが無くなった時が

本当の負け。

そう考えると、

本当に負けはあまりに少ない。

特に、自分の得意とする分野は

たくさんある。

だからこそ、

もう一度、

本当に負けてないものを

確認してみる。

自分の戦うべきもの、

つまり、伸びしろは、

きっとあるのだ。

エネルギーを発揮するためのエールに

 

(今日のコトバ)

 

「がんばる」は、

がんばれる時に着火する

エネルギー。

 

 

「がんばれ」ほど、

昔と今で使い方が変わった

言葉もない気がする。

昔はなんでもかんでも、

「がんばれ」といわれて、

がんばれない人が

ダメな人位の意味があった。

だが、いまではむやみやたらに

「がんばれ」と使うものではないと

いわれる。

人によっては

「がんばれ」という言葉が、

プレッシャーになってしまう人も

いるのだからと。

あえて「がんばれ」と

使わなくてもいいとさえいわれる。

もっというと、

「がんばらなくてもいい」

とさえいわれることもある。

人間は時代と共に進化している。

心身の問題も進化している。

人間らしく生きる術という

知恵も持った。

だからこそ、

一方的に「がんばれ」と

使っていい言葉にはならなくなった。

ただ、それでも、

「がんばれ」という言葉は、

人間にとって

大切な言葉に違いはない。

だとしたら、

がんばれと伝えた方がいいと

思う時に「がんばれ」という。

「がんばれ」といわれた人が

エネルギーを発揮するための

エールになるように使う。

そんな使い方で

使えば、

言葉を送られた人は

自分の中のエネルギーを

燃やすことができる。

「がんばれ」は、

人の中のエネルギーに

着火する言葉として

使っていこう。