乗り越えた力を信じよ

 

(今日のコトバ)

 

転んでも、倒れても、

立ち上がり、

また、一歩踏み出すことを

進歩という。

 

 

生きていれば、

転ぶこと、

傷つくこと、

悲しむこと、、

いろいろなことがある。

振り返ってみると、

自分でもよく立ち直ったと

思えることもあるし、

いまだに引きずるような

傷もある。

だが、それらいろいろなことは、

ほぼ乗り越えてきた。

キレイにクリアしたとは

いい難くても、

なんとか乗り越えてきた。

乗り越えたということは、

そこに進歩があったともいえる。

だとすれば、

乗り越えた数だけ自分という

人間は強くなったのだ。

だからこそ、

いまを生きる自分に、

もっと自信を持っていい。

いままでの壁という壁を

制覇してきた。

その力を信じて、

また一歩前へ進む。

それが生きるということなのだ。

危機意識で安全に生きる

 

(今日のコトバ)

 

危機感は、

安全第一の必須条件です。

 

 

平穏が続くと、

自然と危機感がなくなる。

刺激がなくても、

迫りくる災難がなくても、

危機感は失われる。

あたりまえのことだ。

だが、危機感がまったく

失われてしまうと、

危機的状況に陥った時、

酷い目にあってしまう。

酷い目にあわないために、

すべての危機から逃れることが

無理としても、

自分で対処できるぐらいの

危機であれば生きていける。

そのためにどうしたら良いか。

それは一つしかない。

常に危機感を持って生きる。

もっというと、

危機を想定した準備をしておく。

自分の身に

危機的状況が陥ったら、

どのプランで対処するか。

プランA、

プランB、、。

状況によってプランを用意する。

その危機意識があれば、

かなりの部分で危機的状況は

乗り越えられる。

いま、何も考えず生きているなら、

少しずつ危機意識を持とう。

そして、状況を想定して準備する。

それが、実は、一番安全に

生きていく方法なのだ。

見て見ぬふりはしない

 

(今日のコトバ)

 

善人の怠慢は、

悪人の助長につながる。

 

 

なぜ、「悪」が助長するか。

一番は「悪」を仕掛けた

元締めのような人が

いけない。

悪い事を仕掛けてるのだから、

悪いに決まっている。

だが、「悪」助長する過程で、

善であるべき人たちは、

何をやっていたか。

何か行動を起こし、

悪を止めていたなら

行動としては間違っていない。

だが、

たいがい善とよばれる人たちは、

見て見ぬふりをしている。

悪い事とわかっているが

何もしない。

自分だけは正しいことを

やっているということで、

自分の中で納得している。

だが、本来は「悪」とわかったら、

善の側の人は、

「悪」を止める行動を起こさないと、

「悪」を助長させてしまう。

助長したら、

それは善の役目を

果たさないことにもなる。

だからこそ、

自分が善であると思ったら、

「悪」を止める行動をしよう。

見て見ぬふりは、

「悪」の助長を促進してしまうのだ。

幸せを感じる時間をふやしていこう

 

(今日のコトバ)

 

何もしなかった時間は、

幸せな時間に属する。

 

 

充実した時間を過ごす。

あるいは、

忙しく時間を過ごす。

どちらも人生にとって、

幸せな時間の一つになる。

では、何もしなかった時間は

どうだろう。

ボーっとしたり、

ダラダラしたり、

生産的なことは何もしていない。

言葉にすれば休息。

そんな時間。

人生を見渡すと、

そんな時間も大切な時間。

もっというと、

休息を選んだのであれば、

それも一つの

幸せな時間といっていい。

だとすれば、

人生の時間は幸せが

いっぱい潜んでいる。

その一つ一つを

堪能して生きれば、

自然に幸せになれる。

時間の捉え方を考えて、

幸せを感じる時間を

増やしていこう。

「あきらめない」と生きていく

 

(今日のコトバ)

 

あきらめるのは、

いつでも「まだ早い」。

 

 

「あきらめる」

長く、何度も使ってきた言葉だ。

ただ、その言葉の価値を

わかるようになったのは、

ある程度、

年をとってからの気がする。

「あきらめる」は、

若き日、簡単に使って、

それも、かっこいいと思って

使っていた。

あきめるとはいわないけれど、

「ブチ切れた!」とか、

「できねえーよ」とか、

わりとやらないことを

正当化する時に使っていた。

だが、人生という長い大河を

渡っていると、

あきらめてはダメなことが

あまりにも多すぎる。

もっというと、

あきらめなかったから

上手くいくことも多々あった。

たった一言「あきらめる」。

その言葉に支配されたら最後、

人生の大切なものを失ってしまう。

だとすれば、

どういう気持ちで生きればいいか。

「あきらめる」の反対は何?

粘り強く頑張ってみる。

あきらめるのは、

まだ早いと肝に銘じる言葉。

そんな言葉と生きていく。

「あきらめない」と。

 

 

明日への投資のための今日

 

(今日のコトバ)

 

今日、この道を走ることも、

明日輝くための助走になっている。

 

 

考えてみると、

物心ついてから、

ほとんどの今日という日は、

明日のための準備に費やしている。

明日へ、

未来への段取りのために準備をする。

うまく準備ができれば、

明日はいい日になる

可能性が高まる。

もう何十年もその繰り返しだ。

もちろん、昨日の後始末で

今日を使うこともある。

だが、昨日の後始末も、

明日への準備になることが多い。

だとすると、

今日のすべては、

明日へ、未来への準備。

もっというと、

今日は明日への投資といってもいい。

「明日への投資のための今日」

ポジショニングが決まれば、

今日という日は

もっと希望に満ちあふれてくる。

今日はいつも人生で

大事な一日なのだ。

 

 

 

数値の外にある気持ち

 

(今日のコトバ)

 

気持ちは、

社会のあらゆる数値から

答えの出せなかったものである。

 

 

人には目に見えない

「気持ち」がある。

どこにあるかわからない。

正しく言い表せない。

いつも揺れ動いている。

一人一人まったく違う機能、、。

だが、自分のどこかに確実にある。

人間の持っている繊細で、

美しい能力でもある。

そして、

この気持ちは

数値では表せない。

もっというと、

世の中におけるすべての

数値の外にある。

だからこそ、

人間にとって尊いものなのだ。

人間が人間として

生きるために、

この世の中が素晴らしいものだと

感じるために、

気持ちはある。

自分の気持ちを

大切にして生きていこう。

ハングリーが支え

 

(今日のコトバ)

 

飢えた狼になった記憶は、

一生消えない誇りになる。

 

 

人生のある時期、

自分でも恐ろしいほど

ハングリーになる時がある。

特に、若き日は誰でも

ハングリーになった記憶があると思う。

物資が足らずに

ハングリーになることもあるが、

大きいのは心のハングリー。

何か夢や目標があると、

達成しようとしてハングリー精神が

強く働き出す。

その記憶は誰の心にも

刻まれる。

それは心の傷ではなく、

いちばん近い言葉を探せば、

誇りになる。

「自分の人生には、

こんなにハングリーな季節があった」

忘れられない記憶だ。

そして、その誇りが自分の人生の

心の支えにもなる。

苦しい時、しんどい時、

ハングリーな時を超えた

誇りが支えになる。

いま、自分に困難が迫っている人は、

ハングリーな時の自分を

思い出せ。

跳ね返せる、粘れる、貫く力を

また、呼び覚ますことが

できるはずだ。

 

 

後悔は次へのジャンプのチャンス

 

(今日のコトバ)

 

後悔は、

人間の学習能力を

MAXに上げる。

 

 

「後悔は良くない」というが、

後悔しない人生などあるだろうか。

誰もが後悔を何度も経験して

生きている。

何もしないで

後悔する場合もあれば、

万全の努力をしても

期待した結果が得られず、

後悔することもあるだろう。

ただ、考えてみれば、

どんな後悔も、

この次どうしようとは

考えたはずだ。

後悔先に立たずではあるけれど、

後悔したからこそ、

次の行動を見つめる、改める。

だとすれば、

後悔することも

ワルいことばかりではない。

次の自分を見つけるための

経験だとしたら、

自分にとって

いい作用をすることもある。

だからこそ、

後悔したら

次へのジャンプのチャンスと捉える。

それができれば、

反省も行動も明解になる。

後悔を自分のものにして、

さらなる高みに挑戦するのだ。

弱さは補うもの

 

(今日のコトバ)

 

弱さをかくさなくていい。

ただし、

弱さを売り物にしてはなない。

 

 

誰にでも弱さある。

人間はすべて弱さから

はじまっているといってもいい。

ただ、相手に弱みを

見せたくなかったり、

強さで相手を

制圧したいがために、

弱さをワル者にすることもある。

寄らば大樹の陰ということもある。

ただ、本来、人間は弱い生きもの。

弱さをすべて

隠すことなどできない。

ほんとうに弱いものは、

隠さず伝えればいい。

その先、自分で

強化できるものは

強化すればいいし、

まわりの人の支えで

弱さを補うべきものは

補ってもらえばいい。

一点、良くないことは、

弱さを売り物にして、

必要以上に弱いことを

アピールすること。

すべてが弱いとなると、

支えようがなくなる。

助けることも難しい。

弱さを甘えに

転換することにもなる。

だからこそ、

弱さもギブアンドテイク。

自分の弱さを

補ってもらう代わりに、

誰かの弱さも補ってあげる。

世の中を生き抜くために

大切なことだ。