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(今日のコトバ)
今日、夢の最先端で生きている。
自分がアップデートされるのは、
いつだって今日。
昨日まで過去ではない
今日という現在進行形。
この今日という日には、
最先端で生きるための
あれこれが詰まっている。
若ければ、日々、
アップデートしていくのを
感じられるだろうし、
老いても、何かしらの
新しい情報と出会っている。
つまり、今日を生きている人は、
みな人生の最先端で生きている。
そう思うと、
少し素敵な時間を
今日は与えてくれると
思える。
今日を明るい気持ちで生きられる。
いま、人生の最先端で生きる時間を
思いっきり楽しんでいいのだ。
(今日のコトバ)
叶わなかった夢は
想い出で終わらない。
財産として
人生のどこかで役立つ。
ある期間、
人生を懸けて追いかけた夢。
だが、叶うことはなかった。
辛い思いが残り、
心も傷ついた。
人生は何も残らなかったと
思うこともある。
ただ、ほんとうにそうだろうか。
人生に残すものはなかったのか。
否、そんなことはない。
人生にはたくさんの財産を
残したはずだ。
まず、切磋琢磨した技の習得。
夢に挑むために必要な技を
大なり小なり身に着けたはずだ。
また、夢を追いかけた経験は、
確実に自分の中の財産に
なっている。
もっといえば、
夢への途中で出会った人々も
かけがえのない人脈になる。
そのことを忘れてはいけない。
夢が叶わなくても、
成長という財産は残る。
その後の人生のどこかで
役立つはずだ。
(今日のコトバ)
正論は、議論のトリで。
人には人の正論がある。
人の数だけあるといっていい。
究極は、正論と正論が
嚙み合わないから
争いが起こり、
戦争も起こってしまう。
正論は自分にとって
アイデンティティになるから
譲れなくなる。
みんなが正論を貫き通すと
意見はまとまらない。
だから、多数決という方法をとる。
大筋自分に近い意見に賛成する。
その数が多いと
みんなの正論のような顔をして、
世の中に提案される。
だが、多数決の意見が
本当の正論かというと、
そうでもないことが多々ある。
世の中の議事進行を
進めるために、
多数決で決めているに
過ぎないこともある。
だとしたら、
正論に何の価値があるのだろう。
もし、
正論を価値のあるものにするならば、
できるだけいろいろな意見を聞いて、
調整して、間違いの少ないところで
決着させる必要がある。
そう考えると
はじめから自分の正論だけで
突き進んでは、
良い方向には進まない。
自分のエゴで終わってしまう。
そうならないためには、
あらゆる意見を聞いて、
納得する意見があるかを
確認してみる。
その議論ができた上で、
正論が生まれれば、
仮に自分の正論でなくても
納得いく正論になる。
納得できずに正論だけで
物事を進めると
どこかで破綻する。
そのことを肝に銘じて、
自分の正論の発表の場を
考えよう。
(今日のコトバ)
勝利を祝っている者がいる時、
敗北で学習している者がいる。
勝負は勝利を求めて
切磋琢磨する。
勝利至上主義、
そういっても過言ではない。
そして、勝つことができれば、
成果が出たことになり、
自分も、まわりの人も、
祝勝モードになる。
浮かれて気持ちよくなるのも
あたりまえだ。
ただ、一つ気をつけなければ
ならないことがある。
それは、勝利の美酒に酔いしれて
足が止まってしまうこと。
目標である勝利を手に入れたので、
ここが頂点、
ここが終わりと思ってしまう。
成長の勢いを止めてしまうのだ。
反対に敗北した人はどうだろう。
負けた悔しさから反省する。
次を目指して努力を始める。
足りない何かを学習する。
負けたことで、
さらなる成長を求めていくのだ。
もちろん、負けたその場から
一歩も動けなくなって、
退化する人もいる。
ただ、敗北は人生の起爆剤になる。
もっと成長しようとする
意欲を醸成する。
そのことを忘れてはいけない。
(今日のコトバ)
人生にも春夏秋冬。
そして、
人により季節の長さが違う。
人によって生きる時間は
みな違う。
その中身もみな違う。
特に、人生の時の時といえる
輝かしき時も人それぞれだ。
たいがいが
若き日の青春と呼ばれる日々が
夏のように一番熱く輝く。
ただ、一生青春というように、
いくら年齢を重ねても
青春の時間を
謳歌している人もいる。
また、まったく熱い時間を
過ごしているとは
思えない人もいる。
冷静過ぎて、
動きがなく輝きが
感じられない。
目標を持たず、
ゆっくりと生きる人。
それも生き方だ。
ただ生きる基準は
あってもいいと思う。
自分の人生が
どの季節が長いと嬉しいか。
その思いから逆算して、
自分の生き方を決めるのも
ワルくない。
一生一度の人生。
自分にあった季節を
生きていきたいものだ。
(今日のコトバ)
忘れたいものは、
忘れようとするのではない。
知らん顔するのだ。
少しずつ忘れるために。
忘れたいことを
忘れようと思っていると、
なぜか、
忘れたいことばかり思い出す。
頭にこびりついてしまっていると
いってもいい。
気持ちだけ忘れたくても、
忘れることには逆効果になる。
そんな経験は誰にもあるはずだ。
気持ちというよりは、
脳の仕組みの話なので
簡単には決めつけられないが、
忘れようとすればするほど、
忘れられなくなるのが人間だ。
では、
どう忘れたいことを忘れるか。
いちばん効果的なのは、
知らん顔して、
違うことを考えること。
何かに没頭するのもいい。
汗を流して
身体を発散させるもいい。
趣味で切り替えるのもいい。
忘れたいことを
考えない時間をつくる。
その時間を
つくればつくるほど、
忘れたいことが忘れられる。
人生の時間は短い。
忘れたいことばかりで
埋められては厳しい。
だからこそ、
忘れたいことは
考えない時間をつくるのだ。
(今日のコトバ)
苦労は買ってでもして、
将来の笑い話にしたら勝ち。
「苦労は買ってでもしろ」
特に若いうちは
肝に銘じよというぐらい
いわれる。
確かに、苦労をしておけば
経験値になり、
次に来るであろう困難に
柔軟に対応できることもある。
もっといえば、
経験したからこそ
人として強くなることもある。
苦労は生きていく上で
ワルいことではない。
ただ、苦労が人生に致命的な
傷跡を残すこともある。
そうなると話は別。
そこまでの苦労は
しなくても良かったはずだ。
では、苦労の基準は何か?
人それぞれで
違うかもしれないが、
一ついえるのは、
将来笑い話になること。
笑い話になれば、
トラウマではないし、
傷跡でもない。
「そんなこともあったけど、
いま、こうして笑っていられる」と
思えた苦労なら〇。
それぐらいの基準で苦労と
対峙してみる。
苦労の基準になるはずだ。
(今日のコトバ)
幸せは、
悲劇の舞台裏で
泣いたことがある。
どんな幸せも、
何もなく突然訪れることはない。
そして、なぜ、
幸せになたいかと思えば、
幸せではない自分がいるから
幸せになりいと思う。
では、幸せでない自分とは
どういう状況か。
それは、不幸せな状況、
あるいは、
悲しい状況にある自分がいる。
その不幸せや悲しみを乗り越えて
幸せになる。
それこそが幸せの素晴らしさ。
幸せは簡単に
手に入るものではない。
だが、一度幸せを味わうと、
人生が素晴らしいものに
なっていく。
だからこそ、
できる限り、
幸せを感じる人生に
していきたいものだ。
(今日のコトバ)
みんなの声が大きすぎて、
こころの声が聞こえなくなる。
他人の声とか、
世間の声とかに
流されて、
自分の声が
わからなくなる。
時々、そんな気持ちに
なることがある。
自分の中で
たいしたことがないと判断すると、
「どうでもいいや」と
自分の声を消してしまう。
世の中の大勢の声で
いいと思ってしまう。
ただ、
この気持ちが、
後々、
大変なことになることもある。
例えば、選挙。
どうでもいいやと、
投票しなかったり、
考えなしに人気のある人に
投票すると、
ものすごく後悔することもある。
また、自分のまわりでも、
権力のある人、
大きな声の人に流されて、
自分の声を引っ込めると、
その後、後悔することがある。
だからこそ、
常日頃から、
自分の声を大切にして発信する。
意識して発信しないと、
一人の声はかき消されてしまう。
なんでもかんでもではなく、
自分の守るべき一線の声は、
絶対守る。
そのために自分の声を上げる。
大切なことだ。
(今日のコトバ)
すこし理解。
すこし誤解。
それが人と付き合う正解。
「そんな人だと思わなかった」
人との付き合いで
そう思うことが何度かあった。
自分が思っていた人物像と
違って、少し残念に思う。
だが、本来、
人格を完璧に把握などできない。
だいたいの人柄を人格と捉え、
いい人だの、優しい人だの、
嫌な奴だの、
付き合いのワルい奴だの
決めつけている。
ただ、それは正解ではない。
やっぱり人格は
わからないことが多い。
だから、
これぐらいで
考えたらどうだろう。
「少し理解。少し誤解」
を念頭に付き合っていく。
わりといい距離で
付き合える気がするし、
あまり残念に思うこともない。
人格を知ることは、
とても難しいことなのだ。
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