悩んだ先に行動がある

 

(今日のコトバ)

 

考え過ぎは、行動が渋滞する。

 

 

ちょうどいい悩みなどない。

少し悩み過ぎ、深く悩み過ぎ、

あまり悩まなさ過ぎ、、。

悩みの振れ幅は大きい。

ただ、あまりにも悩み過ぎ、

考え過ぎは、ちょっと問題だ。

何が問題かというと、

行動に差し障るということ。

たいてい悩み過ぎ、考え過ぎの人の

足は止まっている。

前へ進もうとしていない。

結果、悩みから解放されない。

良くない循環になってしまう。

悩みが晴れれば、

考えが解決できれば、

行動することも苦にはならない。

だからこそ、

悩み過ぎ、考え過ぎにならないように、

どこかで区切りをつける。

もちろん、研究開発のように、

時間のかかるものもある。

だが、人生の一般論として、

悩み過ぎ、考え過ぎは区切りをつける。

時間でもいい。人と相談してもいい。

長過ぎると、

人生にいい影響を与えない。

とにかく、悩んだ先に、

考えた先に行動がある。

その気持ちを忘れずに生きてみる。

大切なことだと思う。

傑作にあきらめはない

 

(今日のコトバ)

 

駄作といわれる作品には、

どこかにあきらめが描かれている。

 

 

傑作といわれる

卓越した作品がある。

高い評価を受け、

大きな感動を呼ぶ。

映画などでは記憶している人も

多いだろう。

ただ、中には駄作と呼ばれて

人の記憶から忘れ去られた作品もある。

発表はされたものの

人から酷評を受けたもの、

人から忘れ去られたものもある。

では、傑作と駄作の違いはなんだろう。

監督が素晴らしい。脚本が秀逸だ。

キャスティングが見事。制作費が潤沢、、。

傑作の理由はいくらでもある。

駄作の理由は

その反対であったともいえる。

ただ、駄作に関しては、

それだけではない気もする。

最初は、きっと作品をつくるにあたって、

熱意はあったのだろう。

だが、作品のどこかにあきらめのような

ものがうかがえる。

コミュニケーションを拒否したり、

伏線を回収しきれていなかったり、

トーンが途中で変わってしまったり、、。

作品制作にはいろいろな事情があって、

言い訳をしたいこともあるだろう。

だが、やっぱり作品は最後まで全力を尽くすもの。

もちろん、観客に謎を残して終わる作品もあっていい。

でも、そこでコミュニケーションを無視すると、

もっというと、

コミュニケーションをあきらめてしまうと、

傑作への道は遠い。

誰もが駄作をつくろうとしているわけではない。

だからこそ、傑作にしたいなら、

あきらめるを捨てること。

最後の最後まで全力を尽くして

作品に挑む。

その意志が大切だ。

奇跡が毎日

 

(今日のコトバ)

 

奇跡も毎日続けば

あたりまえになる。

「生きること」さえ、

あたりまえになるのだ。

 

 

 

奇跡。

それほど出会うことのない

出来事だと思って生きている。

たしかにそうかもしれない。

連日、奇跡に出会っていたら、

人生の考え方も変わるかもしれない。

だが、視点を変えて奇跡を

考えてみると凄いことになる。

「生きること」

そのすべてが奇跡と考える。

例えば、出会う人も奇跡。

例えば、おいしい食事をするのも奇跡。

例えば、優しくしてもらうことも奇跡。

例えば、医者に病気を治してもらうのも奇跡。

例えば、誰かに愛されるのも奇跡、、。

そう考えると、

一日の中でも奇跡はたくさんある。

だとしたら、

生きること全般を奇跡と設定してみる。

一つ一つの出来事が奇跡と思うと、

ほんとうに奇跡に思える。

一日を大切に生きる気持ちになれる。

奇跡が毎日。

そんな気持ちで生きても

いいのではないだろうか。

 

足跡を創っている時

 

(今日のコトバ)

 

足踏みも、また、足跡になる。

 

 

人生、停滞している時もある。

スランプといわれたり、

足踏みといわれたり、

傍目では前進していないように見える。

だが、ほんとうに

前進していないのだろうか。

少なくとも、停滞している時は、

前進しようとあがいている。

前へ進んでいるように見えないだけで、

あらゆるトライをしている。

それをスランプとか、足踏みとかの

停滞を表す言葉で決めつけてはいけない。

もしかすると、あがいている時に

途轍もなく大事な経験を

しているかもしれない。

知識を得ているかもしれない。

倒れない、

倒れても立ち上がる方法を

習得しているかもしれない。

スランプ、足踏み、いいじゃないか。

もし、その言葉が自分を後ろ向きにするなら、

「いまは、足跡を創っている時」と

言葉面を変える。

足跡を創っていると思えば、

生きる意欲も湧いてくる。

スランプも、足踏みも、

自分の大きな財産になると思えるはずだ。

結果より過程を大事にしてくれる人

 

(今日のコトバ)

 

結果をほめてくれた人は

忘れない。

だけど、過程をほめてくれた人は、

もっと忘れない。

 

 

一生懸命がんばって、

結果が出た。

その時、称賛をしてくれた人がいる。

まわりにいた人は

みんな称賛してくれたかもしれない。

称賛してくれた人は、

最初はみんな覚えているが、

時間の経過と共に、

忘れてしまう人もいる。

だが、結果ではなく、

途中の経過をほめてくれたり、

途中で叱咤激励してくれた人は、

絶対に忘れない。

何者でもない自分が不安の時、

「それでいい、がんばれ」と

いってくれた人は、

忘れることができない。

結果は大事だが、

それ以上に過程が

大事なことが心に残る。

世知辛い世の中で、

結果ばかり追う人生だが、

だからこそ、

過程がもっと大切になる。

そんな気がするのだ。

敏感であっても、鈍感であっても

 

(今日のコトバ)

 

敏感がいい。

危機をいち早く察知できる。

鈍感もいい。

穏やかに最後までいられる。

 

 

 

敏感、鈍感、どちらがいいか。

状況にもよるが、

考えれば考えるほど、

どちらも大切という答えになる。

敏感は、

察知能力に長け、

常に状況判断ができる。

だから、危機にも強さを発揮する。

では、鈍感はどうだろう。

一つ一つの行為は鈍そうだが、

ある程度の状況では右往左往せず、

平然としていられる。

それも世の中の荒波を生き抜く上で、

魅力的な能力だ。

人は、たいがい敏感か鈍感かに

分けられる。

そう考えると、

どちらの能力を持っていても

人生にはありがたい。

敏感には敏感の良さ。

鈍感には鈍感の良さ。

そう信じて生きる。

どちらか自分の持っている能力を

うまく解釈して生きていこう。

 

人に支えられる前に、人を支える

 

(今日のコトバ)

 

努力するなら、

まず、人に愛される努力をしよう。

 

人の縁。人の恩。人の力。

年齢を重ねると、

自分以外の人の支えによって、

自分が生きていけるとつくづく思う。

何か行うためには、

誰かの支えがなければ解決しない。

そのことが若い時より

理解できるようになる。

そう考えると、

人に嫌われていては、

しんどい状況になってしまう。

人に愛されて、

「〇〇のためなら」と思ってくれる人を

一人で多くつくっていくことが

幸せの礎となる。

だとしたら、

まず、人に愛される努力を

していくことが大切。

では、人に愛される努力とは何か。

それは、人の役に立って生きること。

人に支えられる前に人を支える。

人は、人と支えあって生きている。

その幸せの礎を忘れずに生きるのだ。

同じ人でも、いくつかの顔がある

 

(今日のコトバ)

 

「最低」といわれるその人も、

誰かが「最高」と思って愛している。

 

 

まわりいる評価の低い人。

人柄というか、優しさの欠如というか、

機嫌のワルさというか、、。

とにかく評判が良くない。

ただ、そんな人でも、夫や妻がいたり、

恋人がいたり、親友がいたりする。

「我々との付き合いは最低だけど、

あんな人でも愛してる人がいるんだな」と

時々、思うこともある。

人は人に支えられて生きている。

誰かを支え、

誰かに支えられて生きている。

そう考えると、

自分において最低な人も、

他の誰かにとって最高かもしれない。

自分に見せる顔と

違った顔を持っているかもしれない。

その顔はとてもいい人に

なのかもしれない。

だからこそ、人は面白い。

同じ人でも、いくつかの顔がある。

そして、そのうちの一つは、

誰かに「最高」といわれる顔になる。

人は誰かに支えてもらうために、

最高の顔を一つは持っているのだ。

 

感情的になる前にまとめる

 

(今日のコトバ)

 

問題は論理的に話せるうちに解決しろ。

感情的になってしまった瞬間、

問題は応用問題になる。

 

 

冷静に話せるうちはいい。

笑いながら、冗談を混ぜ、

和気あいあいと話せるのもいい。

だが、コミュニケーションがうまくいかず、

感情むき出しになったりすると、

まとまる話もまとまらなくなる。

相手の話を聞いてもダメ、

相手の話に黙ってもダメ、

相手の話にアドバイスなどしたらなおダメ。

何をしてもまとまらなくなってしまう。

どう対処すればいいかもわかなくなる。

感情に火がついた以上、

すべてがダメかもしれない。

解決法があるとすれば時間だけ。

そんなことを考えてしまう。

だからこそ、

話をまとめようとする時は、

感情的になる前に終わらせる。

一度、感情的になってしまったら、

話をまとめるのが応用問題になる。

そのことを忘れてはいけない。

まず、当事者意識を持つ

 

(今日のコトバ)

 

加害者意識が低すぎる。

被害者意識が高すぎる。

だが、一番問題なのは当事者意識が無いこと。

 

 

人は自分の都合いいように考える。

「自分が正しい」

「自分が損している」

「自分には関係ない、、。」

ただ、こと第三者からみると、

「お前が加害者でしょ」とか、

「被害者はあなただ」とか、

「なんで当事者意識がないんだ?」と

思うことは多々ある。

自分の都合だけで考えていると、

まったく違う眼で

他人から見られているのだ。

だからこそ、

何か出来事が起こった時、

一度、自分の立ち位置を考えてみる。

自分が得する立ち位置でなく、

相手の立場から自分を見る意識をつける。

その視点があれば、

それほど間違った

意識を持たずにすむ気がする。

ましてや、当事者か、

そうでないかは

難しい問題かもしれない。

まず、設定として、

「自分が当事者だったら」と考えて

出来事と対峙する。

そんな気持ちで生きていきたい。