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(今日のコトバ)
毎日、
人生の奇跡が
更新されていることを、
忘れてはいけない。
生きているだけでも、奇跡。
そう思えることが増えてきた。
若い頃は、奇跡というと
途轍もなく想定外、
規格外のことが起こって、
僕らを驚かせ、
喜ばせすることだった。
だが、年齢を重ねていくと、
今日、普通に生きることに
奇跡がいっぱいつまっている。
そう思えてならないのだ。
天気が晴れて気持ちいい。
ランチのはじめて
入ったお店の定食が
想像以上においしい。
出会った人がとても親切だった。
テレビドラマに感動した。
メジャーリーグの大谷選手が
ホームラン王になった、、。
数えれば切りがない。
もちろん、
それを奇跡と呼ぶのはどうか
という議論はあるだろう。
ただ、
一日という時間制限の中で、
気持ちに彩りを
つけてくれくることは、
すべて奇跡に思えてくる。
年齢が重ねると価値観が
変わるものもある。
だからこそ、いま、
奇跡がいっぱいある
人生を生きている。
そう思いたいのだ。
(今日のコトバ)
大きいことをいうのは、
嘘つきになりいわけじゃない。
自分の伸びしろを信じたいのだ。
若いころ、
自分も含めて大きいことを
語る人がたくさんいた。
自分より大きく。
自分の夢を大きく。
自分の能力を大きく、、。
とにかく大きく見られたい。
あまりにも破天荒だと、
嘘つき呼ばわりする人もいる。
だが、そうだろうかと
思うこともある。
振り返っても、
何も人をダマそうなどと
思ってはいなかった。
人と比較して、
小さく見られるのが嫌だった。
もっというと、
自分の力はこんなもんじゃないと、
自分自身にも伝えるために
いっていたともいえる。
そう考えると、
大きなことをいう時は、
自分の伸びしろを
信じている時。
まだまだ成長期に
あるといっていい。
だから、
もし自分が大きいことを
いっているものがあったら、
伸びしろがあると思っていい。
いま、自分の中で
大きいことをいっているものを
探してみよう。
(今日のコトバ)
今日を最後の日だと思って
生きるなんてできないけれど、
今日を最高の日だと思って
生きることはできる。
「今日を人生最後の日と
思って生きよ」
歴史上の偉人たちが
同じような言葉を残している。
たしかに、今日を最後の日と
考えたら、何事も全力を発揮し
出来る限りのことを
やり遂げようとする、、、
と思えるのは、ほんの一瞬。
人間は
スーパーマンばかりではないから、
全力を尽くそうと思っても、
仮想の最後の日では、
力を抜いてしまうこともある。
名言も現代を置き換えると、
少し無理があるものもある。
では、
いまの時代はどんな表現がいいのか。
例えば、
「今日を最高の日」と、
捉えて生きるのはどうだろう。
少なくとも、
最後の日よりは難しくない。
もっといえば、
最高の日なら気持ちも
前向きになれる。
最高になるかはどうあれ、
トライしてみる価値もある。
捉え方は自分次第。
モチベーションがあがる
一日の設定を
考えてみてはどうだろうか。
(今日のコトバ)
どれだけ現実を積み上げても
夢にはならないが、
一つの夢があれば、
現実は夢として動き出す。
何も夢がない。
何も目的がない。
そんな気持ちで生きるほど、
つまらないものはない。
ただ、いつもの暮らしを
漠然としていると、
夢はつくりづらい。
日常という時間が
流れていくだけになってしまう。
だが、こうも考えられる。
一つの夢や目的をつくれば、
人生がその夢や目的に向かって
動き出す。
いまやるべきこと、
これからやるべきことが
明快になる。
生きる循環が
良い方向に向かう。
ワクワクしたり、
面白くなったり、
楽しくなったりしてくる。
つまりは、
一つの夢の仕業によって、
人生が躍動してくる。
どちらがいいではない。
夢がない生き方があってもいい。
もし、その生き方に反対なら、
夢を一つくってしまえばいい。
それだけで、
人生が大きく変わる。
少なくとも、
つまらない人生から
お別れできるはずだ。
(今日のコトバ)
健康で
少しお金が余っていて、
平凡な暮らしができることを
至福という。
何も特別なことを望まない。
日常が平穏無事であること。
そこさえクリアできれば、
人は幸福であるといっていい。
もっというと、
平凡な日常は至福の時を
過ごしていっていい。
だが、
人間は単調な日々を良しとせず、
刺激を求めて
特別なことにトライする。
そこで思わぬ出来事と遭遇し、
不測の事態が起こる。
単調な日々ばかりでは
面白くないから、
仕方ない部分もある。
ただ、その時、
平凡な日々は
至福であったことを
忘れてはいけない。
みんなが苦しまずに
笑って過ごせる時間。
人生の時間を
平凡で彩れたら、
それは素晴らしいことなのだ。
(今日のコトバ)
憎しみは、
引き算を知らない。
一度、憎しみ出すと、
とどまることを知らない。
内心から嫌な思いが熱くなる。
その憎しみは、
人生にとって
あまり良い影響を与えない。
憎しみを抱えて生きると、
自分でもワルい方へ
考えがちになる。
罪なことを考えることさえある。
本当は、
憎しまないで生きられれば、
そちらの方がいい。
では、どうすれば
憎まずにすむか。
憎しみの度合いにもよるが、
憎んだ人、憎んだ行為を
忘れてしまうことが大切。
仮に、憎しみによる
復讐を考えているなら、
相手に反撃するのではなく、
自分の世界で努力して、
自分が成功すること。
自分が幸せになること。
それがうまくいけば、
憎しみはじょじょに
忘れていく。
とにかく、
自分の目指した世界に没頭して
幸せになる。
憎しみを忘れる一番の方法だ。
(今日のコトバ)
理解半分。誤解半分。
それが人間を知るということ。
相手のことを知りたい。
好きな相手でも、
仕事をする相手でも、
尊敬する相手でも,
そう思う。
いろいろ考えて、
いろいろ調べて、
いろいろ話して、
理解を深めた。
ただ、どれだけ
コミュニケーションをとっても、
本当の姿はわからない。
長く付き合ってきたのに、
「そんな人間だとは思わなかった」
と思うことさえある。
きっと、
人間を完全に理解することは
難しいのだ。
だとしたら、
こんな考えはどうだろう。
理解半分。誤解半分。
相手を知ることはそこまで。
それ以上は、
本人しかわからない。
否、本人も
わからないかもしれない。
人間を理解できるのは、
ある程度まで。
ほどほどに理解できればOK。
それぐらいの気持ちで
人と付き合っていこう。
(今日のコトバ)
人見知りとは、
人の顔より
人の心に興味のある人。
「人見知りだから、、」
と自分を紹介する人がいる。
意外に多い気もするが、
そう紹介する人に
ある傾向があることに気づく。
それは、対人の顔を見つめたり、
コミュニケーションをとるのは
上手ではないが、
心や気持ちを
深く考える人であるということ。
フレンドリーに笑顔をつくって、
関係の距離を
縮めることはしないが、
心の距離、気持ちの距離を
縮めようとする。
そういう人に人見知りが多い。
いい、ワルいではない。
人見知りでなく、
フレンドリーに
付き合ってくれる人は
ありがたいし、
人見知りだけど、
人の気持ちを汲んでくれる人も
嬉しい。
人見知りも、
人見知りでない人も、
大切にして生きていこう。
(今日のコトバ)
あれこれいっぱい
抱えているのに、
何もないような顔をして
生きるのが得意な人間。
朝、出社したら挨拶をする。
あたりまえのように
PCの電源をオンにして、
普通に仕事を始める。
会議も発言がなければ、
資料に目を通すだけ。
昼食になれば、
笑顔でいきつけの定食屋へ行く。
ルーティンのような一日。
そこに大きな感情の起伏はない。
もちろん、
ボタンの掛け違いのようなことで、
怒る人や騒ぐ人もいる。
だが、それも一部だ。
総じて、
みんな何もないような顔をして
社会での生活をする。
だが、本当に何もないのだろうか。
持病がある人がいる。
家族に問題のある人がいる。
近所とトラブルを
抱えている人がいる。
使用しているものが
故障している場合がある。
それ以外にも、
困っていることはあるだろう。
もしかすると、
何もない人など
皆無なのかもしれない。
そう考えると、
何もない顔をして生きる人は
どこかで頑張っている。
自分の弱みを見せないように
自分を律している。
だからこそ、
人が弱みを見せた時、
無理をしていると感じた時は
優しくしてあげていい。
自分に置き換えても、
しんどい時には、
優しくされたいと思うはずだ。
人間は虚勢を張って生きる
生きもの。
本当は誰かの手に支えられて
生きたい生きものなのだ。
(今日のコトバ)
孤高の頂まで
登らなくていい。
中腹あたりで腰を降ろして
世界を見渡してみよう。
孤独になってみたい時がある。
人間関係が煩わしくて、
自分一人の時間がほしい。
自由になる時間がほしい。
そんな気持ちになって、
自ら孤独を選択する。
誰にでもあることだ。
だが、
その孤独が行き過ぎてしまうと、
孤高になってしまうことがある。
言葉だけ聞くと
かっこよかったりするが、
孤高になると
手をつなぐことが
できにくくなる。
もっというと、
手を差し伸べることが
できにくくなる。
そうなると、
自分の想像以上に
孤独になり、
孤立してしまうこともある。
だから、
孤独を求めるのはいい。
ただし、
孤高になって、
人から届かない距離で
生きることはしない。
誰かが側にいてくれる状況を
確認して孤独になる。
すぐに、
誰かの下に帰ってこれる。
それぐらいの気持ちで
孤独を求めるようにしよう。
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