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(今日のコトバ)
生き残ったのではない。
生き抜いたのだ。
命は前進することを止めはしない。
毎日、何かしらの問題があって、
完全解決とはいかないまでも、
何とか解決して生き抜いてきた。
生きている人はみな、
生き抜いてきたのだ。
言葉にすると簡単だが、
生き抜くことは
それほど簡単ではない。
たとえば、
3日寝ないことはできない。
一週間食べなければ、
生きていけない。
反対に、
一日中食べ続けることも
できないだろう。
10時間走り続けられない等々。
毎日やっていることも、
生きるルールを無視したら、
人間なんて簡単に絶命する。
だが、そうならないように、
生きるバランスをとりながら、
上手に生き抜く術を
身に着けている。
だからこそ、
いま生きていることに
誇りを持っていい。
決して簡単ではない
生き抜くことを、
見事にできている。
いま、生きているのは、
生き抜く術を身に着けた
集大成なのだ。
(今日のコトバ)
人生にとって、
空白も大切な予定である。
スケジュールを
いっぱい埋めたいと
思うことがある。
何も予定がないより、
充実した人生をおくっている
気がする。
誰もがそう思う。
だが、
いつもいつもスケジュールに
追われていると、
精神が干からびてくる。
イキイキとか、
ワクワクとかの気持ちを
失ってしまう。
もちろん、
真っ白なスケジュールばかりも
困ってしまう。
もちろん、忙しくスケジュールを
こなしているから、
いい仕事ができることもある。
だが、心身が壊れてしまっては
元も子もない。
一度壊してしてしまうと、
修復するまで時間がかかる。
だからこそ、
空白というスケジュール、
休みという時間を大切にしたい。
理想は忙しさと
休みのメリハリだが、
そう都合よくスケジュールは
組めないから、
あえて、空白の休みの時間をつくる。
「あと一日がんばれば休める」
というような気持ちをつくる。
長くいい仕事をするために
大切なことだ。
(今日のコトバ)
「過ち」と書く。
「過去」のことは、
どこかに直すところがあるのだ。
思い返せば、
過去において、
後悔すること、
反省することは
たくさんある。
数限りないともいえる。
中には、
後悔をしたまま
放置したものもあれば、
反省して修正したものもある。
ただ、過去の「過」という字は、
あやまちという意味がある。
過ぎ去ったすべてのことが、
どこかあやまちが
あるのかもしれない。
そう考えると、
振り返ったり、
過去に目を向けたりすることが、
前へ進めない一因だ
という人もいるが、
そうとばかりもいえない。
しっかりと過去をいい意味で
清算して、あるいは、反省して、
現在に、未来に、役立てる。
もっといえば、
現在、未来のために過去はある。
そのぐらいの気持ちで
生きてもいいのかもしれない。
過ちと書いて、
「あやまち」と読むことは、
人生の指針の一つになると思う。
(今日のコトバ)
悲しみを優しさに育てられるのが、
人間の素晴らしさです。
生きるということは、
長い年月の時間を過ごすこと。
当然、いいこともあれば、
ワルいこともある。
いいことは人生にとって
素晴らしい記憶になり、
生きることが気持ち
よくなる。
だが、ワルいことは、
悲しいこと、嫌なこと、
苦しいことなど、
あまり体験したくないことを
導き出してしまう。
できれば、ワルいことを
体験したくないと思う。
ただ、ワルいことも
体験すると財産になることもある。
悲しいこと、嫌なこと、苦しいことを
生きていくために利用できる。
一つは、次に同じ体験をしないように
回避する方法を考える。
また、体験しても二度目以降は、
悲しまず、嫌がらず、苦しまず、
生きる強さを
身に着けることもできる。
そして、これらワルいことを
体験しても、否、したからこそ、
人は優しくなれることもある。
痛みがわかるから、
人に優しくなれる。
それが、ワルいことがあって
人間に起る最大のいい変化
かもしれない。
だからこそ、
ワルいことも、ただ痛い気持ちで
いるのではなく、
自分が優しくなれる出来事として
消化してみる。
生きるためには、
前向きに捉えられる人の勝ち。
捉え方次第で、
人生は大きく変わるのだ。
(今日のコトバ)
「自分」という世界一孤高の山を
征服した者はいない。
「自分に勝て」
「自分に負けた」
そう思ったり、
そういわれたりすることがある。
特に、勝負にかかわる状況では
いわれることがある。
「戦う相手は敵ではない。
自分なのだ」
コメントでもあったりする。
この時の自分ほど
難しい問題はない。
自分に責任を持たせて、
自分で解決させる。
正しいと思う一方、
責任が重たすぎるとも思う。
人はそれほど強くない。
自分だけで解決できないことも
多々ある。
だとすれば、
自分一人では解決できないもの、
自分は誰かや何かの力に支えられて
解決していくものと考えていい。
自分一人では生きていけない。
そんな気持ちを持って
生きていきたいと思う。
(今日のコトバ)
地位や名誉がある
億万長者より、
時間や若さがある
未来長者の方が、
よっぽど幸せだ。
青春の日々は、
それほどわからなかったけれど、
人生において若さは
何より大切なものだ。
若さを言葉で表現すると、
「思いっきり何でもできる時」
とでもいおうか。
本当に若い時はわからない。
ただ、若さを失いつつあり、
老いを感じるようになると、
若さがどれだけ貴重かわかる。
体力があって、病気にも強くて、
睡眠を削っても大丈夫。
好奇心もどんどん追求できる。
夢や希望にも満ち溢れている。
「やってやろう」という
気持ちにもなれる。
そして、
時間が永遠と思えるほどある。
年齢を重ねて地位や名誉が
少しぐらいあっても、
若さにはかなわない。
だかこそ、
自分の中にある若さは
大事にすべきだ。
何も肉体的若さだけでなく、
気持ちや考え方も含めた
若さを大切にする。
人生を楽しく
幸せに過ごすために
必要なことだ。
(今日のコトバ)
遠まわりして出会った景色は、
近道では出会えなかった
絶景でした。
目標に向かって歩いて行く。
できれば、近道でいち早く
到達したい。
誰もがそう思う。
だが、人生において、
そう簡単に到達できる
目標はあまりない。
困難な状況があって、
それを乗り越えなければ、
目標にたどり着かないことが多い。
近道をしたいが、
結局、遠まわりになってしまう。
ただ、遠まわりすることも、
ワルいことばかりではない。
労力がかかって、時間がかかって、
辛い思いをすることはあるが、
その分、
見ることのできなかった光景を
見れたり、
体験できなかったことを
体験できたりすることもある。
人生という長い年表で見れば、
遠まわりしたことが、
大きな財産になることもある。
だからこそ、
遠まわりすることから
逃げるのではなく、
肯定的に前進してみる。
人生に財産ができると
思えばいい。
目標到達と共に
素晴らしい財産が
積み上げられる。
遠まわりするのもいいものだ。
(今日のコトバ)
人生、演技の下手な主役より、
演技を絶賛される脇役もいい。
人生において主役は自分だ。
自分の世界に他人が
キャスティングされている。
どう解釈しようと間違いはない。
だが、人によっては、
主役に向かない人もいる。
自分でも脇に回った方が
能力を発揮すると
思っている人もいると思う。
その人は
自分の人生以外のところで、
誰かの人生の脇を固めればいい。
名脇役という言葉もある。
名脇役といわれれば、
それは主役と同じくらい、
否、主役以上に
価値のあるものに
なることもある。
誰かのための自分の人生。
一生という長い歴史を
どう彩るか。
自分の解釈したいように
人生を解釈すればいいのだ。
(今日のコトバ)
人間の器は、
負けた数に比例して
強度が上がる。
器が大きいというけれど、
何かの出来事に対して、
ビビらない強さを
持った人は安心できる。
細かいことを
気にしないという意味も
あるけれど、
同時に、物事に対しての
強度が強いと思うこともある。
何事に対しても平然としている。
それは紛れもなく、
強い精神力、
強い器である気がするのだ。
そして、その強い器になるには
どうしたらいいのか。
いちばんは経験値。
対応したことがあればあるほど、
怖さは消えていく。
もっといえば、
負けたり、失敗した経験が
多ければ多いほど、
メンタル的にタフになり、
強い器になる。
もちろん、
生まれつき器が強い人も
いるだろう。
ただ、凡人が器の強度を強く、
器を大きくしたいなら、
経験値を積む。
そして、
数多く出来事に挑戦し、
負けた数、失敗の数を
積み上げる。
人間の器を強く、
大きくする上で、
他に正攻法はない気がする。
(今日のコトバ)
後悔とは、
「いま」を
使い切らなかったから起るのだ。
長い人生において、
後悔することは多々ある。
つまらない後悔。
もったいない後悔、
さまざさまだ。
ただ、後悔を考えると、
一つの大きな原因に突き当たる。
それは、「いま」を
使い切らないこと。
「いま」に力を出し切って
生きなかったことは、
確実に後悔の原因になる。
もっといえば、
「いま」に使い切れば、
後悔をしないともいえる。
「いま」を使い切れば、
勝っても、負けても、
納得できる。
「いま」を使い切れば、
成功しても、失敗しても、
納得できる。
「いま」は、
使い切れば後悔しないのだ。
だからこそ、
後悔が多いと感じている人は、
「いま」を使い切ることを
忘れてはいけない。
「いま」さえ納得できれば、
素晴らしい人生になるはずだ。
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