自力を披露しよう

 

(今日のコトバ)

 

自力には、磁力がある。

 

 

優れた自分の持っている力。

自力ともいう。

いつでも高いレベルで

発揮できる自力は、

人生の武器になる。

その武器は、また、

人を引き付ける役目を果たす。

その自力を知りたいから

人が集まってくるのだ。

武器として、

どのぐらいの力を持っているのか

知りたいのだ。

だとすれば、

自力には磁力があることになる。

そして、自力の一部は

この磁力でできている

といっても過言ではない。

だからこそ、

自力があるものは

披露すべき。

自力の磁力で人は集まる。

そして、

自力を知った人々が

自力を広めてくれる。

自力を武器にして

生きる人生ほど、

楽しいこともないのだ。

武器としての

自力を身に着けたら、

大きく披露して生きていこう。

 

 

あたりまえは得意技

 

(今日のコトバ)

 

あなたの「あたりまえ」は、

あなたの得意技かもしれない。

 

 

何のストレスもなく、

日々、あたりまえに行っている。

日々のルーティンになっていて、

特別な行為でもない。

そんな自分の能力の中に、

人より秀でたものがないか。

自分が出来ることを

しっかり見極めると面白い。

誰もが出来ないもの、

あるいは、

全力を尽くさなければ

成しえないものが、

簡単に出来てしまう。

その能力を人生の舞台で

使えれば、

人生は有意義なものになる。

例えば、力があれば

重い荷物を担ぐだけでもいい。

PCに詳しければ、

極めていけばいい。

何か秀でたものが、

自分のあたりまえに

なっている

優れたものはないか。

探し出すことが

生きる道を広げる。

自分のあたりまえを

探すのだ。

 

1%の可能性という意欲

 

(今日のコトバ)

 

1%の可能性といった時、

もう魂は99%可能だと

思っている。

 

 

可能性という言葉を

つぶやいた時、

本当は可能か、

可能でないかの二択で

考えていることが多い。

「可能性があると思う」は、

99%可能だと思っている。

1%は不測の事態の心配だけ。

「可能性がない」は、

99%不可能だと思っている。

1%の漁夫の利のような幸運だけ。

つまり、

「1%の可能性を信じる」という人は、

もう心のどこかで

可能だと思っているのだ。

そう考えると、

人は結構可能性を信じている。

「可能性があるならやろう」

「1%の可能性に賭けてみよう」

そういった言葉が飛び交ったら、

とにかく挑戦してみる。

結果はわからないが、

自分が成長するのは間違いない。

仮にその時結果が出なくても、

次のテーマに成長した自分が

挑戦できる。

1%の可能性という

意欲を大切にしよう。

 

「信じる」の成立

 

(今日のコトバ)

 

信じることは、

相手を信じるだけでは半分。

相手を信じる自分を信じてこそ

完成する。

 

 

 

「信じる」

誰か特別の人に疑いを持たず

本当に気持ちを委ねること。

ただ、この「信じる」ことは、

相手を一方的に疑いを持たず

委ねることだけでは成立しない。

その相手への気持ちが

絶対である一方、

自分の気持ちも

絶対である必要である。

相手を信じる、

相手を信じる自分も信じる。

そこまで気持ちがまとまって、

「信じる」は成立する。

仮に相手だけを信じて、

何か相手が「信じる」に

値しない行動をした時、

すぐに信じなくなるのでは、

ほんとうの意味での

「信じる」にはならない気がする。

そう考えると、

簡単に「信じる」と

いってはいけない。

相手への気持ち、

相手を信じる自分自身、

どちらも確固たるものになって、

はじめて「信じる」が成立する。

それぐらい「信じる」ことは、

大切なものなのだ。

限界点を越えると、見たことのない感情を現す

 

(今日のコトバ)

 

生きるために注意すべきこと。

怒らない人の、怒り。

泣かない人の、涙。

そして、笑わない人の、笑い。

 

 

人と付き合っていて、

その人の限界点を越えたことを

知らせる感情がある。

それは、怒らない人の怒り。

泣かない人の涙。

笑わない人の笑い。

誰も記憶にあるだろう。

いつも平静な人が

切れて怒った時、

非はその人ではなく

怒らせた側にあるのだと思う。

泣くところを見たことのない人が

あふれる涙を流していれば、

よっぽど悲しいことがあったのだ覚る。

また、ほぼ無表情な人が、

突然、笑い出したりすると、

何か良からぬことが

まわりで起こっていると思う。

普段現さない感情を

現した時、

その人の限界点を越えたと思う。

すべてがそうだとはいわない。

ただ、ほとんどの場合が

限界点を越えると、

普段見せない感情を現す。

生き抜くために

覚えておいていいことだ。

 

 

自分に勝つとは、自分が成長すること

 

(今日のコトバ)

 

自分に何度も何度も期待して、

自分に何度も何度も裏切られ、

人は本物の人間になっていく。

 

 

「自分に勝て」という。

たが、自分に勝つとは

どういった時だろう。

あれこれ考えてみるのだが、

結局、勝ち何かはわからない。

勝利や成功した時だろうか?

目標を達成した時だろうか?

何かが上手にできた時だろうか?

それらも勝ちかもしれないと思いつつ、

それで自分の勝ち負けが

決まるとも思えない。

ただ、自分に

勝つかどうかは別として、

自分が成長したかを

確認できることはある。

例えば、できなかったことが

できるようになった時。

自分には技術が

身に着いたとしたら、

自分が成長したといっていい。

それを持って自分に勝ったと

いえなくもない。

そう考えると、

自分に勝つとは、

自分が成長すること。

それぐらいの気持ちでいい。

そして、その間に起こる

自分への期待、

自分への裏切りを経て、

より人間になっていく。

そう考えて

いいのではないだろうか。

 

 

怠け者と働き者

 

(今日のコトバ)

 

みんな臆病で怠け者。

だけど、目標を持った時、

勇者で働き者になれるのが

人間だ。

 

 

目標もなく、

なんとなく生きている時、

自分を怠け者だと思う。

ただ漠然と生きることも

ワルくないと思い、

時間の流れに身を任せてしまう。

だが、ある時、目標を持つと

働き者に豹変する。

一つのゴールに向かって猪突猛進、

全力で駆け抜ける。

たいがいの人は、

そうあるような気がする。

もちろん、例外な人もいて、

いつまでも

エンジンのかからない

怠け者の人もいれば、

いつも働きバチのように

休まず行動している人もいる。

それでも、普通の人は、

怠け者と働き者の二面性を

持っている。

だとしたら、

この二面性を上手に使う。

休みたい時は、

徹底的に怠け者になる。

目標を持った時は、

働き者として全力を尽くす。

使い分けがしっかりできると、

人生は有意義に

なっていくはずだ。

 

 

最先端で生きている

 

(今日のコトバ)

 

今日、夢の最先端で生きている。

 

自分がアップデートされるのは、

いつだって今日。

昨日まで過去ではない

今日という現在進行形。

この今日という日には、

最先端で生きるための

あれこれが詰まっている。

若ければ、日々、

アップデートしていくのを

感じられるだろうし、

老いても、何かしらの

新しい情報と出会っている。

つまり、今日を生きている人は、

みな人生の最先端で生きている。

そう思うと、

少し素敵な時間を

今日は与えてくれると

思える。

今日を明るい気持ちで生きられる。

いま、人生の最先端で生きる時間を

思いっきり楽しんでいいのだ。

夢が叶わなくても財産は残る

 

(今日のコトバ)

 

叶わなかった夢は

想い出で終わらない。

財産として

人生のどこかで役立つ。

 

 

ある期間、

人生を懸けて追いかけた夢。

だが、叶うことはなかった。

辛い思いが残り、

心も傷ついた。

人生は何も残らなかったと

思うこともある。

ただ、ほんとうにそうだろうか。

人生に残すものはなかったのか。

否、そんなことはない。

人生にはたくさんの財産を

残したはずだ。

まず、切磋琢磨した技の習得。

夢に挑むために必要な技を

大なり小なり身に着けたはずだ。

また、夢を追いかけた経験は、

確実に自分の中の財産に

なっている。

もっといえば、

夢への途中で出会った人々も

かけがえのない人脈になる。

そのことを忘れてはいけない。

夢が叶わなくても、

成長という財産は残る。

その後の人生のどこかで

役立つはずだ。

納得いく正論

 

(今日のコトバ)

 

正論は、議論のトリで。

 

 

人には人の正論がある。

人の数だけあるといっていい。

究極は、正論と正論が

嚙み合わないから

争いが起こり、

戦争も起こってしまう。

正論は自分にとって

アイデンティティになるから

譲れなくなる。

みんなが正論を貫き通すと

意見はまとまらない。

だから、多数決という方法をとる。

大筋自分に近い意見に賛成する。

その数が多いと

みんなの正論のような顔をして、

世の中に提案される。

だが、多数決の意見が

本当の正論かというと、

そうでもないことが多々ある。

世の中の議事進行を

進めるために、

多数決で決めているに

過ぎないこともある。

だとしたら、

正論に何の価値があるのだろう。

もし、

正論を価値のあるものにするならば、

できるだけいろいろな意見を聞いて、

調整して、間違いの少ないところで

決着させる必要がある。

そう考えると

はじめから自分の正論だけで

突き進んでは、

良い方向には進まない。

自分のエゴで終わってしまう。

そうならないためには、

あらゆる意見を聞いて、

納得する意見があるかを

確認してみる。

その議論ができた上で、

正論が生まれれば、

仮に自分の正論でなくても

納得いく正論になる。

納得できずに正論だけで

物事を進めると

どこかで破綻する。

そのことを肝に銘じて、

自分の正論の発表の場を

考えよう。