勇気は魂の滑走路を走り出す

(今日のコトバ)

 

勇気は、魂の基地でいつでも飛び立つ準備をしている。

 

 

 

勇気を奮い立たせる時は、不意にやってくる場合もある。

もちろん、心の準備をして挑む場合もある。

ただ、いえることは、勇気はいつでも戦う準備ができているということ。

突然、決断や戦いを迫られた瞬間、勇気は魂の滑走路を走り出す。

目標は、そこから出撃し、意志のおもむく的めがけ飛び立つことだ。

そして、その勇気の出撃ボタンを押すのは、自分だ。

勇気を目標に命中させれば、限りなく成功を手にできる。

仮に成功しなくても、気持ちの整理はつくはずだ。

だからこそ、この勇気を使おう。

勇気を使えば、人生の分岐点に立った時、

その勇気が大きく自分の人生を好転させてくれる。

勇気を使えば、人生の逆境に立った時、

その勇気が凄い力で自分の人生を助けてくれる。

いま、この時も、勇気はあなたのために飛び立つ準備をしているのだから。

見返りは、もうもらっている

(今日のコトバ)

 

「人のために」は、「自分のために」だ。

見返りを考えていては貧困になる。

 

 

 

ボランティアなどで恵まれない人々に募金する。

困っている人を助けることって、見返りを求めることではなくて

自分が気持ちよくなることではないだろうか。

自分の行為が少し誇れる。誰かの役に立っている。

そう思うと自分自身の心が穏やかになる。

本来、人のために何かをすることって、

そんなふうに自分が気持ちよくなればいいのだと思う。

でも、時々、思う。「あれだけしてあげたのに、なんで見返りがないんだ」と。

でも、見返りは自分の気持ちよさでもう充分もらっている。

後で相手から何かをもらったら、それはオマケだ。

オマケはオマケとしてありがたくもらえばいい。

ただ、「人のために」やったことを、恩着せがましく

相手に見返りを求めるのは邪道だ。

心が気持ちよくなったとき、その行為は完結されていなければならない。

満足を求めるスイッチを入れよう

(今日のコトバ)

 

足らない何かを求めて、今日も生きる。

 

 

 

満足なんて、それほどあるものではない。

でも、朝起きた時、満足をするために今日もがんばろうと

スイッチを入れられたら人生も悪くないと思う。

そのスイッチはどこにあるのか。

それは「昨日まで足らなかった何か」にあると思う。

つまり、かんばる目的をつくり、その日一日のテーマにして

クリアする。晩のビールをおいしく飲めるぐらいのことでいい。

少し、ほんの少しでいい。昨日足らなかったものを今日埋められたら

満足できたりする。毎日毎日、足らないものを補うゲームをする。

だから、人生80年も生きられてしまうのだ。

低血圧で朝が苦手な人も、起きたらスイッチを入れよう。

満足を求める一日のために。

ダメな部分もかわいがる

(今日のコトバ)

 

あなたのダメなものと私のダメなもので、

ジャンケンして勝ったり負けたり。

人間ダメなものでできている。

 

 

 

人は、そんなに優秀ではない。長く生きていれば、

良く分かっている。でも、ひとり誰かが頑張ると

自分も自分もと頑張ってしまう。

そして、人の才能とか、人の能力とかが、

とてつもなく凄い力を発揮する。

でも、人間には才能とか、能力とかと関係のない

できが悪い裏の顔もある。

強い自分、できる自分ではない、

弱い自分、できの悪い自分も、

生まれは同じ自分だ。

ならば、ダメ自分をある部分は理解して、

ある部分は許して生きていこう。

ダメな部分を切り捨てるばかりが人生じゃない。

自分のダメな部分は、時にとてもかわいいものなのだから。

自分の横に楽しみを

(今日のコトバ)

 

人間は中退できない。

必ず卒業できるシステムだ。

 

 

 

あきらめることはできても、人生は、人間は、途中でやめられない。

どんな終わり方をしても人生卒業である。

人生の成績が優秀であろうと、人生の不良少年であろうと、

人間の命果てるときが卒業だ。

ならば、人生を楽しむことをたくさん見つけなくては損だ。

幼稚園も、小学校も、中学校も、高校も、大学も、

社会人も、老後も、楽しいことをあれこれつくっておくべきだ。

自分の横に楽しいことがあれば、人生は気持ちよく過ごせる。

中退できない人生を最高の思い出を残しながら生きていける。

忘れてはいけない、人生はどんなときも楽しまなければいけないことを。

楽しむのだ、楽しむのだ、精一杯楽しむのだ。

楽しんでいれば、どんな人生の荒波も優しい風に変わる。

新しい自分の誕生

(今日のコトバ)

 

変化は、変身する舞台をあたえてくれる。

 

 

 

自分の身をおく場所で変化があると、

必然的に変身しなくてはならない。

それは、肩書きだったり、役回りだったりするが、

とにかくフリをしてでも変わったところを見せなくてはならない。

中身はそれほど変わっていなくても、

変わったというポーズをするのだ。

それが悪いというのではない。

いやおうなしに変わることで、

実は新しい自分を誕生させるチャンスをえたとも考えられる。

それが、自分の思い通りではなくても、

カッコ良くなくても、未知の自分に出会えるのだ。

だから、変化を拒否するのではなく、

どんどん受け入れてみよう。

きっと、新しい自分と出会えるはずだ。

ほどほどの距離にいる

(今日のコトバ)

 

遠くへ行っちゃったらさ、

やっぱりわからないよ。

 

 

 

遠くにいる人とは、コミュニケーションがとりづらい。

遠距離恋愛や転勤や引越のようにやむにやまれぬ

事情で距離をおく場合はしょうがないにしても、

自分から後ずさりして距離ができてしまう場合は、具合が悪い。

近くにいればケンカもできるけど、理解も深まっていく。

何かあったときに救いの手も差し伸べてあげたり、もらったりできる。

しかし、自分から連絡手段を切ったり、絶対会えないような

場所へ行ってしまっては、つながっていることなどできない。

距離をおくことって、実はあまりにも愛しあったり、

あまりにも関係が深くなったから起こってしまうことだ思う。

深く付き合ったてしまったがために、

見なくていいところまで見てしまったバッド・コミュニケーションなのだ。

ただ、愛しあったり、深い仲になった人たちなら、

本来は気があう人種の人たちといっていい。

だとしたら、短い人生、この気のあう人たちをばっさりと切っていいのだろうか。

むしろ、ほどほどの距離にいて、

また、つながれるような関係を続ける方がいいのではないか。

人間、気のあう人などそんなにいないのだから。

べたべた近くにいなくてもいい。

遠くへ行ってしまわないで、ちょっと遠くで冷静に見つめてみよう。

嫌な部分も見えたけど、距離をおくとやっばり良い部分も見えてくる。

人間なんて、ないものねだりの天の邪鬼なのだから。

リリー・フランキー著「東京タワー」

わりと本を読む方だと思う。自分では多読家だと自負している。

だが、映画を観るようにボロホロ泣くことは、人生で一度もなかった。

本では映像ほど、人を泣かすことはできないと思っていた。

「東京タワー」という作品を読むまでは。

 

この作品は、リリー・フランキーの自伝的小説である。

ただ、主人公が作者であると共に、主人公に深い愛情を注いだオカンとの物語になっている。

普通は、苦節何年、仕事で成り上がりました、とか、恋人、妻との激愛の歴史になるのだが、

ずーっと、著者を育ててきたオカンとの関わりの変遷という、ありそうでなかった小説なのだ。

小説といっても、これはあきらかに著者のドキュメンタリーであり、

著者を産んだオカン、著者を育てたオカン、病気になり東京で著者と暮らすようになったオカンを

温かな目で著者が包んでいる無償の愛情ドラマになっている(ときどきオトンも出てくる)。

ひとりの男を陰になり支えて一人前にしていくかの前半と、

ガンを煩ったオカンを著者が大きく包みこむ後半が、

殺伐とした毎日を忘れさせて家族のことを思い出させてくれる。

「昔の女は」などというが、子供ために節約し、

毎日欠かさずたくさんのおかずと飯を作り、

よく泣き、よく笑い、よくしゃべる。

戦前に産まれた女としては、よくいたタイプの女性だ。

ただ、著者からすればオカンは特別であり、よくいたタイプなどといわれたくないだろう。

自分の母親が他の親と同じ扱いでないように。

とにかく、秋の夜長、感動する一冊といったら、この一冊を迷わずおすすめします。

 

最後に、この本の「オカン」という部分に「私の母」といれてみると、

案外、似たような母に育てられた自分にびっくりする。

また、「東京タワー」をこれから読まれる人も、

「オカン」の部分が自分の母にだぶってくるのではないだろうか。

才能があなたの「特別」でなくなる日

(今日のコトバ)

 

才能は、タイミングをはずすとただの石だ。

 

 

 

あなたのもっている才能にも、旬がある。

そして、その旬を逃すと才能は機能になり、

あなたの中の「特別」ではなくなる。

スポーツ選手が10歳台後半から20歳台前半に、

才能を発揮しないと、ほぼスポーツで飯は食えない。

頭脳を使うにしたって、どの分野にも才能を開花させる時期があるだろう。

また、判断力が必要とされる仕事は老いてからが

ベストシーズンになることもある。

もし、あなたが才能を世に問い才能で生きていきたいなら、

平時から準備を怠らないことだ。

いつ、何時、タイミングがきてもいいように充分な修練を積むべきだ。

来るべき、その時にむけて自分の才能を舞台で

発表できるよう生きていくべきなのだ。

ムードメーカーといる時間

(今日のコトバ)

 

心の澄んでいる人は、いい風をもってあらわれる。

 

 

 

空気を変えてしまう人がいる。

ひとつは、プレッシャーを運んでくる人。

怖い教師や怖い上司や怖い得意先。

怒られることを前提にしているので、

その人の声が聞こえるだけでドキドキする。

あまり体に良くない人種だ。

もうひとつは、その場の雰囲気に気持ちよさを運ぶ人。

気持ちよい立ち振る舞い、場を楽しませる行動、

みんなをポジティブにしてくれる話術。

その人が来るという情報だけでワクワクする。

ストレスから解放される時間をつくってくれる人種だ。

できれば、後者とたくさん出会いたいものだ。

もし、この気持ちよさを運ぶ人が自分のまわりにいてくれれば、

自分のムードメーカーにもなってくれる。

そして、明日生きるための活力源にもなってくれる。

そんな人とたくさん出会い、たくさん時間を過ごせば

あなたの人生も有意義なものになるはずだ。

長嶋茂雄と時間を過ごした人々が、

あの時間をいつまでたっても大切にしているように。