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(今日のコトバ)
誰かと幸せを比べているうちに、
新しい幸せが生まれていることを
見逃してしまった。
人は、比較する生きものだ。
自分と誰かを比較する。
比較して自分の方が劣っているから、
努力して誰かを越えようとする。
比較が努力目標になることがある。
反対に、比較して誰かの方が
劣っているから、
上から目線になる場合もある。
人はそれぞれの考えがあっていい。
誰かと比較することも
人生では必要だ。
ただ、比較ばかりするがあまり
自分のいまある幸せを
見失ってしまうことがある。
自分がいまどれだけ幸せか。
そこを理解してから、
誰かと比較しても遅くない。
無理やり人と比較級になって、
自分の行く方向を
間違ってもしかたない。
まず、自分の持ってるものから
見極めてから人と比較する。
幸せを身に着ける一つの秘訣だ。
(今日のコトバ)
どん欲になれたということは、
好きってこと。
自分がどれだけ好きかを
はかる時、
何をものさしにするか。
いちばんわかりやすいのは、
どん欲になれるかどうかで
はかる。
だれかに強制されるのではなく、
自らどん欲になれるもの。
どん欲になれるものだったら、
いちいち考えなくても、
好きなはず。
だから、
いま、好きなもの、
やりたいものが見つからないなら、
どん欲になれるものを探す。
夢中でできる何かは、
自分のやりたい方向と合致するはず。
そこを突き詰める、磨くことをすれば、
好きなのが明解になる。
好きなものがわからない人は、
どん欲を探すのだ。
(今日のコトバ)
短所は、短く使うところ。
長所は、長く使うところ。
人には、短所・長所がある。
短所によって、人生で失敗することが
あったり、
長所によって、人生で成功することが
あったり。
その反対もあったりする。
ただ、短所も長所も生まれついて
持ったものだから、
多少の修正はできても、
完全修正はできない。
だとしたら、
上手に付き合っていけばいい。
失敗する可能性が高い
短所を使ってしまう時間を短く。
評価される可能性が高い
長所を使う時間を長く。
短所というからには、
短く使う。
長所というからには、
長く使う。
その気持ちを意識するだけで、
人生は少しだけ生きやすくなる。
自分の長所を長く使う
生き方を考えよう。
(今日のコトバ)
頼れない味方は、
第二の敵である。
あらゆる戦う場面で
思うことがある。
味方であるのに
足を引っ張る人がいる。
特に、チームプレイが必要な戦いでは、
足を引っ張る人が致命的になることがある。
その足を引っ張る人とは、
何も能力がない人ではない。
一番はやる気を見せない人。
次にチームのムードを壊す人。
この二つのタイプは、
目的に向けて走る時、
ほんとうに足手まといになる。
戦いの勢いをそぐだけでなく、
勝とうとする意欲もそいでしまう。
敵より敵になってしまう。
むしろ、敵は努力目標となって、
いい作用をつくり出せるが、
足を引っ張る人は、
どうにもならない。
だからこそ、
戦いに挑む時、
チームで戦う時、
自分の味方は誰か、
はっきりさせる必要がある。
同じ目的に向かって
走れるか。
違う方向へ向かないか。
やる気を見せず
停滞ムードをつくりあげないか。
敵は、味方の中にもいる。
そのことを忘れてはいけない。
(今日のコトバ)
自慢の背骨は、
虚勢で出来ている。
必要以上に自慢話をする人がいる。
誰も聞いていない。
話が大きすぎる。
いちいち癇に障るなど、、、。
自慢話をする人すべてに思うことが、
「自信がない人」ということ。
自信がないからこそ、
わざと自信があるよに見せようと
虚勢をはる。
聞いている人々は、
自慢を凄いなどと思わず、
ただただ不快な気持ちになる。
自慢をする人は、
そこに気づかないでいる。
自慢をしていれば、
自分が上に立てる、
自分が優越感にひたれる、
自分の位置が確保されると思っている。
反対に自分が話を聞く側に
なってみれば良くわかる。
相手の自慢話ほど、
気分を害するものはない。
自慢話をどう考えるかだが、
自分が聞く側になってみればいい。
異常に虚勢をはった
自慢話はしなくなる。
自慢話の不快感がわかるはずだ。
(今日のコトバ)
常識は劣化して中古品になり、
非常識は進化して新商品になる。
人は常識の中で生きる。
常識をはみ出してしまえば、
罪になることもある。
ただ、常識にも
賞味期限がある。
「この常識は、
いまは通用しなくなった」
ということもある。
例えば、現代と昭和の常識では、
まったく違ってくる。
鉄拳制裁あたりまえの昭和は、
先生が殴るなどあたりまえ。
家庭でも、部活動でも、
暴力は標準的にあった。
昭和で先をゆく者の暴力を
否定したら、
その人が非常識と呼ばれたりした。
現在は、どの世界でも暴力はNG。
平気で暴力をふるう者こそ、
非常識の権化になる。
昭和の鉄拳制裁という名の
暴力は、「暴力ではない、愛情だ」
といわれた。
そんなこと一つをとっても、
常識は非常識に、
非常識は常識になる。
だからこそ、
常識も疑ってみる。
そのことを意識して
生きることで本当の常識が
わかってくるのだ。
(今日のコトバ)
意志が地に足をつけて、
意地になる。
成長するためには、
意志が必要になる。
強い意志であればあるほど、
大きな成長につながる。
その意志が一過性ではなく、
信念として続くものであると、
それは意地になる。
人生のあらゆる問題を
解決するには、
意地が必要。
また、勝負の最後は、
意地の戦いにもなる。
そのためにはじめに必要なのは、
強い意志。
しっかり持ち続ければ、
自分の成長につながる。
そのことを忘れてはいけない。
(今日のコトバ)
裸の王様は、
自分が裸であることを隠す
鏡を持っている。
自分がどんなふるまいをしているか
わからない。
傍若無人な態度でも
みんなが許してくれる。
だから、
陰口や後ろ指を指されていても
わからない。
裸の王様といわれてしまう。
だが、最近思うのだが、
裸の王様といわれている人は、
本当に自分の態度が
わかっていないのだろうか。
もしかすると、
裸の王様であることを
わかっていながら、
裸の王様にしてくれる人を
まわりに配置しているのではないかと
思うのだ。
つまり、利用することができる、
威張ることができる人間を、
わざとまわりで固めて、
裸の王様のふりをしている。
裸の王様で生きる方が
楽だから、
そのふりをしている。
ただ、まわりの人間は、
たまったものではない。
もし、自分のまわりに
裸の王様のふりをしている人が
いるなら教えるべきだ。
「あなたは、裸の王様だ」と。
まわりの人の迷惑を考えたら、
いち早く伝えるよう。
(今日のコトバ)
貸したものって、
意外と返ってこないんだなあ、
これが。
借りたものって、
意外と返してないんだなあ、
これが。
人との金の貸し借り。
誰かの名言だったか、
どこかの国のことわざだったか。
「金は借りてもいけない、
貸してもいけない」という。
本当にそうだと思う。
借りてしまうと、
きっちり返しても負い目ができる。
きっちり返さないと、
相手は不快感とともに嫌な顔をする。
貸してしまうと、
きっちり返してくれないと腹が立つ。
なんとか返して欲しいのだが、
返してくれといえない自分に頭がきて、
きっちり返さない相手に怒りを覚える。
金という媒体を通じて、
人柄が理解する。
人間性を問うことになる。
仮にもし、金という媒体とは
縁がない関係なら、
ここまで人柄・人間性を考えることは
なかったはずだ。
つまり、金という媒体を通じて、
利害関係が生まれる。
そこで、金の介入しない関係から、
まったまく違う次元の関係になる。
むしろ、利害だけの関係に変わってしまう。
だからこそ、
人は金の貸し借りのある関係に
なってはいけない。
その関係になった瞬間から、
いろいろな関係の上位概念に
利害関係が君臨する。
いままで培ったあらゆる関係が、
存在意義を失ってしまう。
金には人の関係を大きく変えてしまう
力があるのだ。
(今日のコトバ)
今日もどこかで会ったような一日。
どんな日になるか
体のどこかで憶えている。
毎日、新しい日がはじまる。
まったく経験したことのない日だし、
未体験な時間だ。
だが、人生をある程度生きていれば、
たいがい同じような
体験をした日があった。
デジャブーのような気持ちに
なることもあるし、
昨日と同じような作業をしているので、
似たような時間を
過ごしていると思ったりする。
そんなことを考えていくと、
今日のほとんどの時間は、
自分の体が
憶えてきたことのような気がする。
だとすれば、
怖れることはない。
人は、見えない未来に不安を
覚えることがある。
特に、プレッシャーのかかる未来には、
不安がつきまとう。
しかし、その未来もどこかで
出会った時間と似ていることが
ほとんどのはず。
そのことを意識すれば、
見えない未来に不安になることを
少しだけ避けることができる。
まったく未体験の時間などない。
そう思って生きていけばいいのだ。
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