かけがえのないアイコン

 

 

(今日のコトバ)

 

そこにいるだけで、

あなたは誰かのかけがえのない存在に

なっているんだ。

 

 

 

そこで生きている。

いつもの定位置で生きている。

あたりまえのように、自分の環境があり、

自分の仲間がいる。

その真ん中に自分がいる。

誰かに特別何かをしたわけではないが、

そこにいることがとても重要。

ただいるだけで、

自分の定位置につくだけで、

まわりの人が安心する。

長くそこにいると、いるだけで

まわりの人の心に存在ができる。

自分のやることをまっとうすることで、

まわりの人は一つの安心のアイコンをつくる。

アイコンはやがて、まわりの人の人生にとけこみ、

かけがえのないものになる。

突然、人がいなくなると、

「ぽっかり心に穴があく」という。

まさに、かけがえのないアイコンを

失ってしまったから穴があくのだ。

だからこそ、自分の定位置は大切にしよう。

自分が思うより、まわりの人が

大切なものを無くしてしまう。

そのことを忘れてはいけない。

 

自分という現状を超える

 

(今日のコトバ)

 

弱さは、見る目を持ち、聞く耳を持つ。

 

 

 

勝者になってしまうと、

その地点で止まってしまう。

強者になってしまうと、

過信して努力を怠ってしまう。

そこが人生のターニングポイント。

敗者が、弱者が、

切磋琢磨を続け、弱点克服をすると、

勝者、強者を逆転する。

常勝がありえないのは、

人生の逆転劇があるから、

どこかで負けるのだ。

では、なぜ、敗者、弱者が、

逆転するのだろうか。

それは、負けたことによって、

弱いことによって、

見る目を持ち、

聞く耳を持つからに他ならない。

どうして負けたのだろう。

どうして弱いのだろう。

その答えを探し、答えを教えてくれる人の話を

ちゃんと聞くようになる。

実は、その素直な気持ちが、

人生のあらゆる壁を超える礎になる。

言い訳や逃げの気持ちを捨て、

まっすぐに自分を走らせる気持ちが芽生えた時、

人は、自分という現状を超えることができる。

そのことを忘れてはいけない。

 

希望の差

 

 

 

(今日のコトバ)

 

道は、希望を見つけるための光である。

 

 

何か目標ができた時、

そこに希望があると、

果然、やる気がわく。

全力疾走するエネルギーになる。

反対に、目標があるのに希望がない状況だと、

目標は漠然として、

やる気は全開にならない。

「あそこで辿り着きたい。ただ、

どう追いかけていいかわからない」

そんな気持ちになり、途方に暮れてしまう。

「あそこに辿り着きたい。ここに、

追いかけるための希望がある。

その光を見つめながら走り続ければ、

やがて目標の場所まで辿り着ける気がする」

そう思うと、やる気は全開になる。

希望があるか、希望がないか。

それだけの差なのだ。

先日、「希望の党」という政治集団が

小池百合子代表の下、発足した。

政治は清濁あわせ飲まなくてはならないから、

党名だけで信用してはいけないが、

「この党には希望がある」ということを

伝えたかったのは間違いないだろう。

それぐらい希望という言葉には力がある。

そして、言葉だけでなく、

ほんとうに希望があれば、

人の気持ちの中に

途轍もないエネルギーが生まれて

思いっきり前進していける。

希望は、人に無限の力を与えてくれる。

人生に目標を設定した時、

この希望を持たない手はないのだ。

 

 

即興は人生のデータベースから

 

(今日のコトバ)

 

人生は、ころがりながら、つまずきながら、

生きるためのアドリブを覚える。

 

 

毎日、生きる上で、即興を要求される。

社会でコミュニケーションをとる立場なら、

その場所、その場所で、

即興で判断しなければならないことがある。

その即興が、人生を変化させていく。

そして、長い人生、体験したことが、

即興の大きな財産になっていく。

特に、失敗したり、負けたり、

ころんだり、つまずいたことは、

自分のデータベースに組み込まれ、

その先の人生に大いに役立つ。

人生のデータベースにデータがあれば、

失敗しない対応、

負けない戦い方ができるかもしれない。

もちろん、不測の事態があるから、

どれだけデータがあっても、

防げないものもある。

ただ、データはある程度、人生の予防線にはなる。

人生の日常には、喜劇、悲劇、ハプニング、アクシデント、

成功、失敗、勝利、敗北、奇跡、

幸福、不幸、可能、不可能等、、、。

いろいろな事を体験する。

その時、即興で対応できるのは

体験がデータベースになっているからに他ならない。

この体験というデータは人生最大の財産だ。

持っているかいないかで、

その後の生き方がまったく変わってしまう。

そのことを忘れてはいけない。

 

 

弱味に人間味が宿る

 

 

(今日のコトバ)

 

弱味をみせることも、

人間味のおいしいところです。

 

 

 

いつも強がっている人がいる。

いつも頑張っている人がいる。

いつも前向きに生きている人がいる。

そんな人が、時々、弱味をみせる。

何かとてもつらいのだろうと思うと同時に、

人間性を感じる時がある。

ただただ強いだけではないんだ。

ただただ頑張るだけではないんだ。

ただただ前向きなだけではないんだ。

弱い部分があって、

そこをカバーして、そこを超えて、

世の中に立ち向かっている。

人間らしいと思う。

愛しいと思う。かわいいと思う。

強味だけではない弱味を含めて、

その人間性が素敵だと思う。

人間関係を続けている時に、

より深く人間同士を結びつけるきっかけが、

弱味をみせる時だったりする。

わるいことではない。

だが、いつも弱味ばかりをみせられると、

そうはいかない。

いい加減にしろよ、とサジを投げたくなる。

弱味をみせることは、

どこかで甘えに通じることもある。

つねに甘えているように感じることになる。

人間の弱味。

いつもみせるものではない。

ただ、いつも頑張っているなら、

人生の休憩という意味でも大切なものになる。

そして、その弱味に人間味が宿る。

そこがまた、たまらなく愛しくなる。

それが人間というものだ。

冷静になって、もう一度

 

(今日のコトバ)

 

怒りや憎しみは、血圧を上げることしかできない。

 

 

 

 

怒り頂点に達する。

カッカして、感情がどうにもならない。

この感情をなんとかしたい。

そう思うことがある。

憎しみがおさまらない。

血液が憎しみが巡るようだ。

そう思うこともある。

ただ、そんな気持ちも

おさまってみると、

何も生んでいないことに気づく。

生んでいないどころか、

失うものがある。

貴重な時間を不愉快な思いで失う。

血圧を上げて体調を悪くする。体力を奪う。

憎悪は自分の正しい感情を失わせる。

人として、嫌な部分が大きくなる。

あまりにも、人生において、

失うものが多い。

笑いや楽しみに比べて、

人生にプラスにならないものが多すぎる。

もちろん、怒りから生まれる復讐心が、

人生にとって必要なこともある。

ただ、それにしても、復讐心ばかりで生きていると、

心は荒むし、気持ちは悪い方へ向かっていく。

だとしたら、

できるだけ怒りを起こさない、

怒りを鎮めることを考えた方がいい。

どうても許せないことは別として、

無駄に怒る、あえて怒る、

パフォーマンスとして怒る等々をやめてみる。

つねに、怒ることがどれだけ人生の貴重なものを

失っているかを考えてみる。

怒りが起こったら、一呼吸おく。

少し冷静になってから、

もう一度、考え直す。

そうすれば、

怒りが、いかに無駄なエネルギーを使っているか

わかるはずだ。

 

 

 

 

自由を自主規制しない

 

 

(今日のコトバ)

 

おとなの顔をすることで、

自由を自主規制していませんか。

 

 

 

「守りにまわったな」

「ずいぶん大人になっちゃって」

「つまらない人間になったな」等々。

年をとって、行動や考え方が変わった人を

揶揄する言葉がある。

大概が大人になって保守的になった時に使われる。

では、大人になったとは、どういうことか。

それは、昔より、若き日より、

自由を満喫しない、

自由に生きていない状態を指すのではないだろうか。

もっというと、

自由を自主規制している様子をみると、

保守的になったと思われる。

自由を自主規制することがわるいことではない。

背負うものが増えて、

身動きがとれなくなったり、

守るものを自由より優先しているのかもしれない。

ただ、人生は一度きり。

やりたいこと、やるべきことはあるはずだ。

そのやるべきことと、

大人の人生をどこで折り合いをつけるか。

もちろん、子供の時間のように、

ただただ自由でも厳しいと思う。

だが、すべての自由を自主規制したら、

自分が苦しくなる。

それこそ大人なのだから、

頭を使って、自由な時間をどこかにつくる。

大人というカテゴリーにいることに

流されるのではなく、

自分の人生をどうしたいかを考える。

そこを意識して、

自由をできるだけ自分の人生につくる。

息苦しい人生にならないために、

大切なことだと思う。

 

得意分野で人を助ける

 

(今日のコトバ)

 

自分の定位置につかないと、

誰かを助けることはできない。

 

 

誰にも得意な分野がある。

人より秀でている領域だったり、

長いことその分野に従事したり、

その分野の技術を持っていたり、、、、。

自分の定位置といっていい得意分野であれば、

その能力を使って、

何かアクシデント・トラブルがあっても、

サポートすることができる。

難題を解決できたり、

困った人を助けることができるかもしれない。

だが、自分の得意分野でないと、

人を助けることは難しくなる。

得意分野でないということは、

実力がないということ。

つまり、解決力がないということでもある。

情で、自分の得意分野でない難題に、

手を出しても、

余計に傷口を広げてしまうかもしれない。

助けることはおろか、

混乱を広げてしまうことになりかねない。

そう考えると、

人を助ける力になるには、

自分の得意分野であるかを確認すること。

もしくは、自分の能力が使うことができるかを

確認することが大切だ。

あまりに自分の能力とは違ったところで、

難問を解決しようと思っても、

いい結果を出すのは難しい。

「自分の得意分野で人を助ける」

そのことを意識して手を差し伸べれば、

ほんとうに人を助けるができるはずだ。

幸せは自分の環境の中にある

 

(今日のコトバ)

 

幸せは、他人が決めるものではない。

自分が決める環境基準だ。

 

 

 

どこからか幸せで、

どこからから幸せでないか、

決まっているものではない。

個人によって差があるし、

人が幸せと思っても、

自分は不幸と思うこともある。

当然、その反対もある。

「うちは家族が多くて、

ビンボーで、ビンボーで」といいながら、

とても幸せそうな顔をしているから、

よくよく訊くと、お金より家族といることが

幸せだという。

この場合、お金の幸せよりは、

家族の幸せが大きいということになる。

だが、人よりはお金を稼いでいるし、

地位も、名誉も手に入れたいるのに、

少しも幸せそうに感じない人もいる。

訊けば、今の地位を維持するために、

常にプレッシャーを感じている。

毎日生きるのが苦しいという。

どちらが正解ということはない。

ただ、幸せは、個人差で変わるということ。

もっといえば、おかれている環境を

どう感じるかで変わるということ。

アフリカの難民と

日本人の我々の幸せ感も違うように、

ひとりひとり違う。

だとしたら、他人と自分を比較して、

幸せか、そうでないかを考えるのは

むなしいこと。

自分が幸せだと思えば、それでいい。

幸せは、自分の環境の中にある。

そう考えていればいいのだ。

 

いい人も人間

 

 

(今日のコトバ)

 

いい人が仮面を脱ぐと、

わるい人ではなく、

いやな人になる。

 

 

 

自分が生活しているまわりに、

必ず一人はいる、いい人。

日頃、笑顔が多く、

怒ったりせず、なんでも話を訊いてくれる。

頼みごともしやすい。

もっというと、面倒くさいことも

お願いしやすい人。

いてくれると、非常に助かる人。

まわりの人から、いい人といわれる。

ただ、そんないい人も、

基本的にはおだやかなのだが、

どこかでスイッチが入って、

キレる人がいる。

普段、キレないだけに、

破壊力抜群。

その時思うのが、

いい人がキレると、

わるい人になるのではなく、

いやな人になってしまうこと。

たぶん、いい人は、仮面の部分があって、

自分の気持ちの中で処理していることが多い。

その処理機能が働かなくなるぐらいキレると、

「いままで、そんなこと思っていたのか」

というぐらい、いやな気持を吐露する。

みんなが安心していい人だと思っていたけれど、

実は、ドロドロなことを考えていたんだと知る。

そうなると、普段、付き合っている人々は、

付き合い方を考え直さなければと思う。

それがいけないということではない。

ただ、ギャップも含めて、

いい人は、キレると、評価が一変する。

人としては、あたりまえのことなのだが、

いやな部分が見えると、

いやな人になってしまう。

いい人も人間だ。

いい人がキレると、

そんなことを感じてしまうのだ。