幸せのスペック

(今日のコトバ)

 

休んでわかる、

忙しいのは幸せなことだ。

 

 

 

少し前に入院した時の話。入院直前まで忙しく

連日タクシー帰りの日々だった。

命にかかわる手術ではないため、入院前日も深夜まで働いて、

いざ入院、その日のうちに手術をした。

3日4日は傷口の痛みでうなっていたが、

一週間もすると腫れも引き体調はすこぶる回復してきた。

と感じた瞬間、だんだん退屈になりはじめ、ゴロゴロしている

だけでは物足りなくなる。

本を読んでも、テレビを見ても、時間が進まなくなる。

どうしたことだ?あれだけ欲しかった休みがとれているのに、

少しも楽しくない。癒されない。

何かをやる目的があって、それを遂行することができないと、

いきいきと暮らせない。生活のリズム、精神のバランスをとることができない。

人は、ある程度の忙しさの中でこそ、

気持ちよく生きていける動物だとベットの上で理解した。

案の定、入院10日目を過ぎたあたりから、見舞客が来るようになると、

来客数に応じて、ムクムクと血が元気になるのを感じた。

人によって、忙しさの基準は違うかもしれない。だが、

その人なりのほどよい忙しさは、幸せのスペックであり

とても重要なことなのだ。

上原隆著「雨にぬれても」

こんな時代に、こんな時代だからこそ、ジワジワと読者からの評判をよび、

書店では平積みされPOPが飾られている作家がいる。

ノンフィクション作家、上原隆。

隣りにいる、まわりにいる、誰もが出会ったことがあるような人間を、

短いルポでまとめあげ、心をうつ。

挫折した人間、堕ちていく人間、夢を壊してしまった人間、

現状に納得していない人間、岐路に立って困っている人間、人間、人間。

この本には人間以外何も書かれていない。

傷を負っていない人間は誰も書かれていない。

「人間生きていれば、傷のひとつやふたつ誰だってあるじゃないか」

そんなメッセージをこめた人間模様を描いた作家だ。

 

作者を知ったのは書店で前々作「友がみな我よりえらく見える日は」という

本を見た時だ。そのタイトルを目にしたと同時に

就職二年目に学生時代の同期6人と居酒屋で再会したことを思い出した。

当時、広告の弱小プロダクションに勤めていた私と、

ほかの5人で給料の話をした時、あまりの差に愕然としたのだ。

「今年は業績がよくてボーナス8ヵ月でるんだよ」

「この間、金一封で10万円もらってね」

「福利厚生がよくて世界各地の施設がただで使えてね」

「で、お前は?」

世はバブル全盛。これぐらいの会話はあたりまえの時代、

年収100万円ちょっとの私は、話題を変えるのに必死だった

記憶が鮮明に残っている。

その時、「なんてあいつらえらくなったんだろう」

と真剣に思ったものだ。金じゃない。まだ、社会の新人なのだから

いくらでも差は埋められる。逆転できる。

そう思っていあの頃を、

たった一行のタイトルで蘇がえらせてしまったのだ。

 

その本で出会った世界は、まさに卒業アルバムを広げて

「あいつどうしてるかな?」

「親父の店継いだけどうまくいってないみたいだ」

「あいつは?」

「ずいぶん早くに結婚したけど離婚した」

「あの子は、どーよ」

「卒業したら見間違えるほどきれいになっちゃってさ」

なんて会話の中に出てくるような主人公がたくさん登場する。

生の人間を書いているのだから当然、

ハッピーエンドばかりではないし、

むしろ塩辛い人生の方が多数だ。

しかし、なんだろう、この心地よさは。

筆力としかいいようがないのだが、気持ちがふさぐことなく

むしろ、明日への活力にさえなる気がする。

いままで、あまり日本では体験したことのない作家なのだ。

例えれば、ピート・ハミルの「ニューヨークスケッチブック」や

ボブ・グリーンの「アメリカン・ビート」のような読後感かもしれない。

例えれば、クラッシックやジャズやましてやヒップホップではなく、

シンプルなロックンロール。それも誰もができそうでマネできない

ローリングストーンズのような高揚感かもしれない。

 

最近は、インターネット発の無記名な小説やドキュメンタリー?が

ヒットしているが、どっこい人間はこうやって描くんだよと、

さりげなくメッセージしているような作家だ。

新作「雨にぬれても」(幻冬舎)は前作、前々作同様、街にいる平凡な人を取材し

人生の数だけ読者を楽しませてくれている。

 

ぜひ、上原隆を未体験の方は体験していただきたいと思う。

明日のステップ

(今日のコトバ)

 

終ったことを捨てられないと、

始めるスピードは遅くなる。

 

 

 

ひとつのオーダーを受け、作業を完了した。

しかし、方法論や内容に不満が残る。

反省はおおいにするべきなのだが、

後悔や悲観ばかりしていては次のテーマに臨む時、

気持ちよく臨めない。その分だけ集中力も欠き

勢いのあるスタートダッシュはきれない。

であるなら、終ったこと中に検証、後悔、悲観などを含めた

反省すべきすべてを積み込んで一回ピリオドをうってしまおう。

心の中で一回忘れるくらいのつもりで完結させよう。

また、新鮮な気持ちで新しいテーマに挑めるように。

そのことを肝に銘じるだけで、

そう考えるレッスンをするだけで、

明日のあなたのステップは、

少しだけ軽やかになるのではないだろうか。

相勝ち

(今日のコトバ)

 

相手に勝たせて、自分も勝つ。

相勝ちがいい。

 

 

 

一方が勝って、一方が負ける。力の違いを判定して勝負を決める。

スポーツの勝負のような時代は終わったのかもしれない。

日本もグローバルスタンダードに合わせ、自分達だけではない、

一緒に仕事を成立させていこう考え方のなかで

もはや負けをつくってはいけない時代になってきている。

ふたつ以上の力で課題に取り組み、協力して解決していく。

ひとつが大きな利益を生んで、その分野を牛耳るのではなく

共にに協力しあって利益を生む。

21世紀になり、進化も速まり、世界中が同じ解答を出すことが

可能になった現在、つねに意識の中にwinwinの関係、

つまり相勝ちがより必要になっているのではないだろうか。

笑いの効能

(今日のコトバ)

 

100倍笑え。

カラダは100倍浄化する。

 

 

 

大笑いした後の、あのスッキリした気持ちは、

体内の汚れたものを浄化させ、きっと、カラダをよくしているはずだ。

根拠はないが、自分自身で人体実験している

データを考えると、あながち間違ってはいないと思う。

飲み屋で、会社で、テレビの前で、

腹がよじれるほど笑った後は、なぜか、その時までにためていたストレスが、

きれいに消えた気がする。しばらくの間、気分が爽快になる。

まわりで、よく笑っている人間も特別健康そうだ。

逆に、深刻な顔や辛そうな表情している人は、

必要ないストレスまでかかえていそうだ。

噂では、笑いが健康いいことは証明されているらしい。

ならば、一生の笑いの時間が長い人間と少ない人間のデータをとれない

ものだろうか。笑いでガンの発生率が激減!などと証明できれば、

人は笑いにさらなる希望をみいだす。

みんなが笑っている明るい国に変われるかもしれない。

みんなが健康な国に変われるかもしれない。

そして、自然とみんなが平和を思考した国になっていけるのではないか。

残しておく温かさ

(今日のコトバ)

 

友情は、いちばん気をつかって

残しておく温かさだ。

 

 

 

慣れてくると、甘えがはじまる。甘えがはじまると、仮面を脱いで

だらしない自分を披露してしまう。何も悪気があるわけではないが、

あの人なら自分のすべてを受け止めてくれるだろうと、一方的に考えてしまう。

特に友情とよべるものを必要以上に感じでいる友には、そう思ってしまう。

しかし、その甘えの構造は、違う血の流れる人間には重くのしかかってしまう時がある。

のしかかるだけではなく、度を超して心の領域を侵犯し、

その友との縁を切ってしまうことさえある。

自分におきかえても、これぐらいはと友にお願いしたことが、

相手にとっては不愉快この上ないことで大げんかをしたことがある。

本当はいちばん大切にしなくてはいけないものなのに。

いちばん大切にしなくていけないものなら、なおさら

慎重に、大事に、心地よい距離をおきながら

付き合わなくてはいけないものなのかもしれない。

それを、できるようで、できないのが人間でもある。

本物の友は、生涯のための宝だ。

だとすれば、やはり友情は最大級で大切にするもなのだ。

あなたには、本物の友はいますか。

人格という武器

(今日のコトバ)

 

宿命という山を、

人格というシャベルで掘り起こし、

人生という道をつくる。

 

 

 

生まれた時に、もうどうすることもできない宿命という状況がある。

ただし、人間は生まれたまま、ただ大きくなるのではない。

人格という人生を切り開くための武器をもって成長していくのだ。

この武器が、どんな状況もドラマチックに、ロマンチックに演出し、

一生という舞台を作り上げてく。人格が悪いといわれることは、

武器が悪いということことではない。ただ、もしかすると

使い方を間違っているかもしれない。

みんなに理解されていないのかもしれない。

人生は長い。その人格という武器をゆっくり見つめ、対話し、

有効に使うべきではないか。

うまく使えば素晴らしい人生という道ができ、

満足感のある人生がおくれるはずだ。

キャンペーンをはる

(今日のコトバ)

 

自分が何者かキャンペーンをはれ。

人はキミに懸賞をつける。

 

 

 

どんなに高い技術をもっていても、誰にも知られなければ、

宝のもちぐされになってしまう。例えば、日記のようなもので

おもしろい文章を書いていても、自分以外の人に知られなければ、

文章力は伝えられない(ゆえにブログは画期的な媒体であるのだが)。

他の分野でも「やればできる」といいながら発表しなければ、

真価も問えない。いま、あなたが世で試したい能力や技術があるのならば、

明確に「私は、○○ができます」と宣言しよう。

その看板をみた人があなたに価値をつけ仕事を依頼してくるはずだ。

文句は悲鳴

(今日のコトバ)

 

文句は悲鳴だ。

その中に真実がある。

 

 

 

他人が文句やグチをいう時、気持ちの弱さや軽薄な印象を受けてしまうが、

本当にそれだけだろうか。自分を守るため、あるいはみんなの権利代表として

文句をいってる言葉には、正論や反対意見の名を借りた悲鳴が隠れていると思う。

怒り出して文句をいってる人に「こいつこんなこと考えていたんだ」と

感じたことは多かれ少なかれあるはずだ。でも、よくよく考えてみると

その人の弱い部分からくるストレートな叫びだったりする。飲み屋でくだをまいて、

グチっている言葉も実は、酒の力を借りて発する悲鳴なのかもしれない。

そして、その言葉には社会のルールを遵守していては語れない真実があるのだ。

だから、文句は受け止めてあげよう。ちょっとのグチも許してあげよう。

悲鳴だと思えば、振り向いて手をさしのべてあげることもできるはずだ。

髪を追う僕

連休明けの月曜日は眠い。休み中の不規則な生活がたたって、

朝からトップスピードにはいれない。いつもなら電車で本を読むのだが、

開いてる席があるとそのまま座り、会社のある駅まで睡眠。

普段、車中の居眠りでは見ない夢をうつらうつら見た。

 

満員電車に飛び乗ろうとする僕を後ろらきたサラリーマンふぜいに、

髪をひっぱられホームに戻される。サラリーマンはひきちぎった髪を

ホームの外へ投げてしまう。その髪を求めて追いかける僕。

改札を抜け髪を追う僕。横断歩道を越えて髪を追う僕。

パチンコ屋の横をすり抜け髪を追う僕。開店前の居酒屋の先へ飛ぶ髪を追う僕。

コンビニの前を飛ぶ髪を追う僕。小学校の校庭を飛ぶ髪を追う僕。

土手から川に向かって飛ぶ髪を追う僕。

「ああ、髪が川に落ちた」

下流に向かって流れていく髪を追う僕。

「ああ、急流にまぎれて髪は消えていく。なんてこった、薄くなりかけた髪を。

命と同じぐらい大事な髪を」

 ってところで、目が覚めた。会社のある駅だ。

髪があってよかった。夢でよかった。ほんとうによかった。

今日からまた、新しい一週間がはじまる。