人生に敗北はない

 

(今日のコトバ)

 

人生、

不戦敗以外の敗北はない。

 

 

 

人生は戦いの連続だ。

何か目標がある限り、

争いを避けて通れない。

命の奪いあいはないにしても、

傷ついたり、

傷つけたりする場面は、

いくらでもある。

そして、勝った、負けたで、

一喜一憂する。

ただ、この戦いの場面を

人生の場面とするなら、

敗北はないといっていい。

正しくいうと、

自分が敗北を認めない限り、

敗北にならないと思う。

人生という時間は、

生まれてから命果てるまである。

その中での勝敗は、

どれもこれも途中経過でしかない。

その時点で勝っただけで、

この先、

負けることもあるかもしれない。

その反対もありうる。

だからこそ、

自分が敗北宣言しない限り、

人生に敗北はない。

日々、生きいくのに敗北は辛い。

だが、すべてが途中経過で、

まだ負けていないと思えば、

少しだけ前向きに

生きていけるはずだ。

 

 

後悔を嫌う必要はない

 

(今日のコトバ)

 

後悔がたくさんあるということは、

挑戦をたくさんしたということ。

いい人生だともいえる。

 

 

後悔はしないという人がいる。

本当だろうかと思う。

人間なんて生きていれば、

数えきれないほどほど

後悔しているのではないか。

失敗や敗北はいうにおよばず、

ちょっとしたミス、

他人を傷つけたこと、

ふられてしまったこと、

いわなくていいことを

いってしまったこと等、、。

ただ、後悔がたくさんある

ということが、

そんなにワルいことだとは思わない。

むしろ、後悔できることが

たくさんあるということは、

それだけ挑んだことがあるということ。

人生としては面白かったのではないか。

もっといえば、後悔はいけないが

反省ならいいという人もいる。

だが、後悔しない反省などありえない。

反省ばかり考えても息が抜けない。

自分が納得する後悔なら、

それも良し。

人生は簡単ではない。

後悔することも人生。

意識して

後悔を嫌う必要はないのだ。

人生を日割で考える

 

(今日のコトバ)

 

人生は一度きりだけど、

今日は生きた日数分ある。

 

 

 

人生は短い?

人生は長い?

人によって感じ方は

それぞれだと思う。

人生を一度と決めてしまうと、

一回きりになってしまう。

だが、人生は今日一日の

積み重ねと考えるとどうだろう。

人生の一日を一回とカウントする。

だとすると、

ほとんどの人が数万日の人生、

数万回の人生がある。

もっと前向きに考えると、

数万回のチャンスがあるのが

人生。

生きることは、

出来事を幸せに変えていく時間だ

ともいえる。

楽しくする人生、

面白くする人生、

喜びのある人生、、。

人によってさまざまある。

それも、日々変わるものでもある。

そう考えると、

人生を一度きりで考えるより、

日割で考えてもいい。

一日一日を面白く。

一日一日に一喜一憂する。

一日一日を大切にする、、。

その繰り返しが

人生という大河ドラマになる。

人生は今日一日という単位で

楽しんでもいいと思う。

人間の休息に必要な場所

 

(今日のコトバ)

 

人は帰れない道を歩いている。

だからこそ、

帰れる場所が必要なんだ。

 

 

 

人生は、

戻ることのできない

一方通行の道を歩いている。

戻りたくても、

もう二度と同じ時間という道には戻れない。

ただ、戻れない道ばかりでも、

帰れる場所はつくることができる。

否、どんな人も

帰れる場所をつくっている。

それは、

戻れない時間を生きていても、

どこかで休まる場所がないと、

心をいやすことが

できないから。

人間として生きていく上で、

どうしても帰れないものがある。

帰れないだけで生きていたら、

孤独感は大きくなり、

強く生きることができなくなる。

だからこそ、

帰れる場所は必要。

戦士の休息ならぬ

人間の休息に必要な場所。

その場所があるからこそ、

明日、また生きてく意欲がわくのだ。

 

 

幸せな時間をどれだけ積み上げてきたか

 

(今日のコトバ)

 

別れたことが悲しいのは、

出会ったことが幸せだったからです。

 

 

人と別れる。

自分に身近であればあるほど、

悲しいものになる。

特に、愛していた人は特別に悲しい。

反対に、自分から遠い人、

付き合いのない人は、

悲しみからも距離ができる。

悲しみを感じるのは

距離感も一つだが、

出会ったことで

幸せになった時間があるかないかが

大きい。

幸せな時間を

どれだけ積み上げてきたか。

その時間の長さと悲しさは比例する。

人と別れる。

それはとても寂しいこと。

だが、それと同時に

その人がどれだけ自分に

幸せな時間をくれたかを

確認することでもあるのだ。

目標達成のために選んだ人

 

(今日のコトバ)

 

 

選んだ道には、

選ばれた人が現れる。

 

 

 

人は、道を選んで生きている。

意識無意識問わず、

道を選んで生きている。

その中で出会う人がいる。

偶然必然問わず、

出会う人がいる。

この出会った人達は、

みな出会うべくして

出会ったのだと思う。

道を選ぶのは、

目的を達成するため。

大きい小さいあるにせよ

目的を達成することが

人生をつくり上げる。

その時、

自分だけでは、

目的を達成できないことは

たくさんある。

誰か自分以外の知恵が

必要だと思う。

その考え方の延長線上で出会うのは、

目的達成のために選んだ人なのだ。

いま、人生の目的達成が難しいと

悩んでいるなら、

達成に必要な人に会いにいこう。

出会いを待とうが、

出会いに行こうが、

いつかその人が必要になる。

だとしたら、

ムダな時間をつくらないためにも

自分から会いにいく。

そこが目的達成への最短の道になる。

謝罪は早目に

 

(今日のコトバ)

 

謝罪には、有効期限があります。

 

 

自分がワルい。

どこかで謝らなければならない。

ただ、素直になれなくて、

謝るタイミングを逸している。

そんなことは誰にでもあるはずだ。

謝りたいけど、謝れない。

元通りの付き合いをしたいけど、

できないから困ってしまう。

ただ、そんな時は、

すぐに謝ってしまうのが

一番の解決法。

事と次第によるが、

たいがいのことは謝れば、

許してもらえる。

一度でダメなら、

二度、三度と謝ればいい。

もっというと、

謝らずにモヤモヤした気持ちを

続けているのは、

謝罪とストレスの二つの悩みを抱える。

だからこそ、

謝罪は早目にする。

そして、相手との関係を修復する。

時間が経つと、

不快感ばかりが募り、

相手も自分も嫌な気持ちが続く。

早目に謝って、

相手に誠意をみせよう。

悩みがあってあたりまえ

 

(今日のコトバ)

 

今日はみんなにとって

初めての日なんだ。

悩まず生きている人なんて

いやしない。

 

 

最新の自分とは、

今日の今という瞬間を

生きている自分。

どれだけ生きていても、

新しい状況と対峙している。

そこに悩みがあるのは

あたりまえ。

未知のものを体験している以上、

不安があることもある。

だから、

今日が不安だとか、

どうしていいかわからないだとか、

ちょっと怖いとか、

前進できないこともある。

何もない方がおかしいと思っていい。

人生は短くても、

いろいろなことがある。

そこに初体験もたくさんある。

悩みがあってありまえなのだ。

現在できることで生きる

 

(今日のコトバ)

 

過去にできることは、

もうない。

未来にできることは、

まだない。

現在できることしか、

今はない。

 

 

 

過去、現在、未来とあるけれど、

何かをできるのは現在しかない。

ただ、人は過去に

すがりついてみたり、

未来にばかり気をとられたりする。

どちらも生きるために

大切なことではある。

ただ、

現在が抜け落ちているということは、

現在がいけていないということ。

本当に充実した人生をおくっていたら、

現在何をしているかが

いちばん重要になる。

もし、自分が現在のことで

生きていないなら、

どこかに充実していない

ところがある。

そのことを

チェックポイントとして生きる。

生きるためのの基準に

なるはずだ。

 

「みんな」は、「みんな」以外の人を責めてないか

 

(今日のコトバ)

 

「みんな」とは、

殴りもせず、蹴りもせず、正体も見せず、

人を傷つける生きものです。

 

 

 

「みんなって、どこにいるんだ?」

ある芸人が叫んでいた。

ほんとうにそう思う。

「みんながいっている」と、

まわりの人がいう。

自分もいっている時がある。

だが、その実態を知っていることは、

まずない。

「みんな」といってしまうと、

世の中はとか、常識的にはとか、

あなた以外の総意はとかの

意味を持ってしまう。

実態の検証はされていない。

冗談で話している分にはいい。

ただ、「みんな」という言葉が

凶器になることがある。

「みんな」という言葉で誰かを責めて、

誰かを追い込んでしまう時がある。

そうなると「みんな」という言葉は

罪になる。

だかこそ、「みんな」という言葉を

慎重に使いたい。

「みんな」といった時、

「みんな」ではない誰かを

責めていないか。

そこ忘れて「みんな」を使うのは、

間違っていると思う。