嫌いなものを嫌いというのも処世術

 

(今日のコトバ)

 

「嫌いなものは嫌いだ」と

はっきりいった方が、

嫌われなかったりする。

 

 

 

人に気を遣って、

嫌いなものを嫌いといわない。

あえて、自分の意志をぼかし、

態度を鮮明にしない。

この社会を生きる処世術のひとつと

思っている人がいる。

ただ、どうだろう。

自分のまわりに態度を鮮明にしない人が

必ずしも好かれているかというと、

そうでもない気がする。

むしろ、鮮明でない分、

「何を考えているかわからない」と

思われたり、

「あいつ、風見鶏だな」と

いわれたりして、

いい印象を与えないこともある。

反対に、

嫌いなものは嫌いだと、

自分の意志を鮮明にする人は、

案外、嫌われない。

意志を明快にする分、

はっきりしていて、

わかりやすい性格とか、

サッパリしているとかいわれて、

好かれることも多い。

そう思うと、

嫌いなものは嫌いで意志を

はっきりすることも処世術。

ストレスなく生きて、

嫌われない、

一つの処世術。

どっちがいいか考えてみよう。

逃げずに立ち向かえ

 

(今日のコトバ)

 

逃げながらやろうとすると、

現場から遠くなる。

その分、時間がかかるし、

その分、労力を使うから、

逃げなかった人間より、

結局、しんどくなるのだ。

 

 

 

厳しい状況におかれたり、

苦手な問題をつきつけられると、

逃げ出したくなってしまう。

できるだけ、

その状況、

その問題を避けて、

遠ざかろうとする。

ただ、逃げて逃げきれるものは、

案外、少ない。

逃げても、結局、

解決しなければならなくなるので、

しんどい思いをすることになる。

であれば、

逃げずに立ち向かう。

逃げない分、

遠くに行かずにすむ。

立ち向かえば、

最速で解決することもある。

逃げないことは、

結局、しんどいことを

最低限で終わらすことができる。

そう思って、生きていいのだ。

意識して心の荷物を降ろす

 

(今日のコトバ)

 

背負って疲れるなら、

降ろして楽をしよう。

ほら、まだ、荷物をかつぎ過ぎている。

 

 

 

人は、知らず知らずのうちに、

荷物を持ち過ぎている。

世の中の、人間関係の、

重い荷物を持っている。

時に、その荷物が

自分の許容量を超えてしまうことがある。

バッグの荷物のように、

はかって、目に見えてわかるものは、

荷重オーバーがわかるのだが、

心の荷物ははかり知れない。

重すぎる荷物を

長く持ち過ぎていることだってある。

意識して心の荷物を降ろさないと、

心がいっぱいいっぱいになってしまう。

そこを忘れてはいけない。

「意識して心の荷物を降ろす」

忘れていると、

突然、自分に良くない変化を

及ぼすこともある。

心にも荷物があることも意識しよう。

努力を楽しむ

 

(今日のコトバ)

 

昔、努力は強制された苦しみだった。

今、努力は自由意志の楽しみになった。

それでいい、努力の意味は、

目的のために力を尽くすことなのだから。

 

 

 

昔、「努力をしろ!」といわれると、

かなりの強制感があって、

重石をつけられた気がした。

「訓練をして

時間をかけて一人前になれ。

苦しいことがたくさんあるから

覚悟しろ」

そういわれているような気がした。

だが、今の人たちは違う。

努力も選択している。

自分が選択する行為になっている。

だから、「楽しみたい」という人が

増えてきた。旧い世代にとって、

努力が楽しみながらできるとしたら、

こんな素晴らしいことはない。

ゆとり世代やさとり世代のアスリートに、

とてつもない怪物に育っているが、

この人たちは、きっと、

努力を楽しめていると思うのだ。

時代が変わって

昔とは違う概念のものがある。

昔は許されたが、

今は許されないものがある。

昔は許されなかったが、

今は許されているものがある。

努力も概念が変わった

一つかもしれない。

楽しんで訓練、修練できたら、

人生の楽しい時間は増えていく。

できるなら、今を生きる人は、

努力を楽しめるようになるといい。

人生がもっと幸せな気持ちで

過ごせるようになるはずだ。

最高傑作はNext One

 

(今日のコトバ)

 

最高傑作だと思っても、

時間がたつと

ただの作品になることがある。

それは作品の問題ではない。

自分が成長したから、

傑作がただの作品に

思えるようになったのだ。

 

 

 

 

自分が作った作品を、

何か月、何年かして見返すと、

粗が見えたり、

稚拙に思えたりする。

時間が冷静な分析を

させてくれるようになったともいえる。

作っている時は、

熱くなり過ぎていたので、

落ち着いてみると、

ベストではなかったと思ったりする。

ただ、懸命に作った時点では、

最高傑作を作ったはず。

では、なぜ粗が見てくるのか。

それは、懸命に力を発揮して、

完全燃焼した結果、

自分が成長したからに他ならない。

成長して実力がその作品を超えたのだ。

そう思うと、

自分の作品の足りないところが見えても

あたりまえになる。

そして、だからこそ、

次の作品は最高傑作でなくてはならない。

チャップリンがいうように、

「最高傑作はNext One」

そう信じて作品をつくるのだ。

叶うまでの距離は、少しずつ

 

(今日のコトバ)

 

少しずつだけど良くなっている。

少しずつ、少しずつ、少しずつ。

良いことは、少しずつ自分にとって

良くなるのだ。

 

 

 

願ったことが突然出来てしまったら、

それは素晴らしいことだけど、

ほとんどの場合、

そうはいかない。

紆余曲折、一進一退、スランプあり、

敗北感ありの道をたどりながら、

願いを叶えていく。

「今日こそ、今日こそ」と

願いが叶うことを考えているのだが、

叶うまでの距離は、

少しずつしか縮まらない。

反対に、少しずつだが、

手を抜かなければ前進しているともいえる。

その少しずつを理解して生きていけるか。

理解して切磋琢磨していければ、

願いは叶う。

理解できずにあきらめてしまうと、

願いは叶わない。

いってみれば、それだけの差。

できれば、

「少しずつ前進している」ということを、

自分の意志の最先端において、

頑張っていく。

そこを忘れないで生きていければ、

願いの叶う素晴らしい人生に

なるはずだ。

いい人でない時間を生きる

 

(今日のコトバ)

 

いい人というレッテルを貼られて、

いい人を期待通り演じていると、

いい人も有給休暇をとりたくなります。

 

 

 

どこにでも一人ぐらいいるだろう、

いい人といわれる人。

ものわかりが良くて、

基本的に怒らなくて、

笑顔に近い表情でいる。

まわりから、

「いい人だからなぁ」と

いわれている人。

ただ、そんないい人も、

知らず知らずのうちに

いい人を演じてしまっていることもある。

そこまで怒らないではいられないけど、

あえて怒らずにいる。

そこまで笑っていられないけど、

あえて笑っている。

まわりからのいい人というレッテルを

演じてしまっている。

だが、そんないい人も

どこかの沸点に達すると、

突然キレたりする。

まわりのいい人という眼に

自分が合わせていって、

本当の自分と乖離したいい人という

自分を演じてしまっているのだ。

そう思うと、

いい人にも限界がある。

あまりに自分でいい人を演じている人も、

まわりでいい人といわれるっている人も、

必要以上に、

いい人というレッテルを

貼り過ぎないようにする。

もっといえば、

いい人といわれた自分にも、

ちゃんと休みをあげる。

いい人ばかりではない自分を

さらけ出していい。

人は、いい人ばかりでは

生きていけない。

時に、本当の自分で生きていく。

長い人生を生きるには、

大切なことだ。

 

まっすぐの信念のために、大切なことがある

 

(今日のコトバ)

 

道をまっすぐ歩くことは大切。

同じように、どこかに

逃げ道をつくることも大切。

それは、自分にも、相手にも、だ。

 

 

 

一つの信念を貫くことは、

人生にとってとても大きい。

信念を貫ける人は凄い能力の持ち主だし、

素晴らしい人生をおくっている思う。

ただ、人生は一筋縄ではいかない。

まっすぐに信念を貫くだけで

生きることはできない。

時に、休んだり、

時に、曲がってみたり、

そして、

時に逃げてみたりすることも大切。

まっすぐの信念は、

まっすぐ突き進むだけではない。

いろいろな動きの中で前進していく。

そのためにいろいろな手法を使って

信念を貫く。

常に、信念を貫くだけでは生きていけない。

そこを理解して生きることが大切なのだ。

得意分野を見極めて力を発揮する

 

(今日のコトバ)

 

何も持っていない人はいない。

だが、自分の持っていないものが必要な

舞台に上がって、

オロオロしている人がいる。

せっかく部隊に上がるなら、

自分の持っているものが

使える舞台に上がれ。

 

 

 

人には、

得意不得意がある。

何かの成果を上げたい時、

あたりまえだが

得意分野で勝負できた方が

有利な戦いができる。

だが、世の中の人を見渡すと、

得意ではないところで

戦っている人が多い。

得意ではないというより、

得意不得意を見極めずに

戦っている人が多い。

見極めずに戦っていると、

勝てるものも勝てないし、

必要以上の苦労をすることになる。

もちろん、苦労した結果、

得るものもある。

ただ、できれば、

得意な能力を使って、

戦いに勝利したい。

それには、

自分の得意な力を発揮できる

分野で勝負することを

忘れてはならない。

分野を見極めて、

実力を最大限に発揮する。

分野の見極めから

戦いは始まっているのだ。

 

クセを自分のブランドに

 

(今日のコトバ)

 

クセは、自分が思うほど

嫌われ者じゃない。

かわいがられたり、

愛されたりすることもある。

ならば、自分のキャラとして

ブランドにしてもいいじゃないか。

 

 

 

クセというと

自分の短所のように

思い悩んでいる人がいる。

クセにも

いろいろなものがあって、

一概にいえないが、

一言いえるのは、

人は自分が思っているほど

クセを嫌っていないということ。

性格からくるクセは、

むしろ、面白がったり、

かわいがったり、

コミュニケーションのひとつとして

優れた機能を発揮している。

クセが、その人の

ブランドになっていることもある。

そう考えると、

クセを自分の大切なツールにしたり、

コンテンツにしてもいい。

自分のことが

面白がられたり、

かわいがわれたり、

愛されたりするなら、

こんなにいいものもない。

自分のクセを

もう一度見直してみよう。

もしかすると、

想像より優れた

自分の機能を

忘れているかもしれない。

見直してみよう。