(今日のコトバ)
人生は、無償と報奨でできている。
ほとんどが報奨でてきている。
自分のやったことに対して、対価をもらう。
成果に対して、肩書きをもらう。
人生の大部分が、報奨を手にする行為に集約される。
だが、どうしても無償になってしまうものがある。
たとえば、親が子供に対する愛だ。
これは、見返りを求めない(求めている人もいるが)で、
潤沢に愛情を注がなければならない行為だ。
これほど、無償といわずして、なんといおうか。
また、ボランティアなども、無償のひとつかもしれない。
ただ、ボランティアの場合は、その行為をしたことによって、
自分の心に報奨を考えてしまうことがある。
純粋に無償とは、よべないかもしれない。
恋愛も難しい問題かもしれない。
最初に好きなった時に、まったく相手のためだけを考えて、
見返りを求めずには、恋愛は成立しない。
となると、恋愛も報奨の部類に入るかもしれない。
ただし、結婚して長い年月がたち、
利害関係からではなく、無償の愛情に転換されることもあるだろう。
これらを考えると、人生の行為の中で無償なものは、
限られた行為の中にしかない。
それも親子の関係の中がほとんどだ。
なのに、昨今は親が子供を平気で殺してしまう。
秋田小一男児殺害事件で近所の子供を殺しているだけでも大罪なのに、
自分の娘を殺しているかもしれないという。
もし、親が子供へ愛情を注げなければ、
無償のなどという言葉は、死語になってしまう。
人間は、無償があるからこそ、素晴らしい人生があるのだ。
利害だけで失わうことのない無償を、
人間はもっと大切にするべき時にきている。