熱い人がいる、熱い人になる

 

(今日のコトバ)

 

熱のある人のまわりに、

人はあたたまりにくる。

 

 

 

 

何か事を起こす時、

その中心に情熱をもった人がいる。

時に、リーダーだったり。

時に、最前線にいる人だったり。

情熱という熱を燃やし、

熱い気持ちで物事に立ち向かう。

その熱さに引き付けられて、

まわりの人が動いていく。

この情熱をもった熱い人がとても大切。

反対に、情熱のある人が

いない時のことを考えてみよう。

誰も嫌々行動する。

誰も責任をとらない。

誰も熱さがない等。

時々、そんな事に出会うこともある。

だが、そういう時は、

いい方向へは向かわない。

失敗へ向かっていくといってもいい。

だとすれば、

物事を成就させるには熱い人が必要。

必ずといっていい。

そして、熱くなれるのが自分であると、

やりがいも出てくる。

人生に起こる様々な出来事に

熱くなれると、

人生が有意義で

面白いものになるはず。

熱い人に自分がなる人生を

生きていきたい。

感覚のあう人は、幸せをもっている

 

(今日のコトバ)

 

人は、人との距離をはかりながら、

幸せになれる位置を探している。

 

 

 

 

ノリが近いとか。

リズムがあうとか。

フィーリングばっちりとか。

人は、自分と感覚のあう人を探している。

特に、プライベートは、

感覚のあう人と時間を過ごしたい。

もちろん、まったく感覚の違う人に

刺激を求める場合もある。

ただ、この場合、長くは続かないし、

一時で終わる場合が多い気がする。

では、なぜ感覚のあう人といたいと思うのか。

それは、一言でいえば

幸せになりたいということ。

感覚のあう人と時間を過ごして、

楽しいひとときを過ごしたい。

面白さを共有したい。

同じ方向を見ていたい。

つまりは、幸せになりたいという

一言に集約される。

4月になると、

入学、入社なので新しい出会いがある。

その時、感覚のあう人を探すのは、

幸せを探すこと。

無意識に幸せを探している。

たくさんの新しい幸せが生まれる

時期でもあるのだ。

 

 

 

プラスにすれば幸せになる

 

(今日のコトバ)

 

ひがんでいる人は、

幸せがいつも少なく配られる。

 

 

 

成功。勝利。達成、、、、。

それら他人の結果を、

まともに称賛できない。

どこかに嫉妬心がある。

どこかでひがんでいる。

誰にでも、少しはそんな気持ちがあるだろう。

ただ、ひがんだからといって、

自分が幸せになることはない。

ひがむ数だけ嫌な人になっていく気もする。

まわりからみたら、

それこそ、ひがみ根性丸出しで、

かっこわるく映る。

もちろん、ひがむこと、嫉妬することから、

反撃のエネルギーがわくこともある。

だが、ひがんでいるだけでは、

どんどん自分が劣化するだけだ。

さらにいえば、

ひがんでると幸せも避けて通る。

称賛したり、反省したり、

普通のことを普通にすることの方が、

自分の人生にとってプラスになる。

プラスになるということは、

幸せになるということにもつながる。

どの気持ちを選択かは

自分の意識次第。

どうにでもなるのだ。

知識は知識を求めている

 

(今日のコトバ)

 

人間が進化したのは、

知識がふえればふえるほど、

知識がないことを痛感してきたからだ。

 

 

 

 

一つのことを理解すると、

その先のわからないことがふえる。

研究とか、学問とかを突き詰めると、

そのことの繰り返しといって

いいかもしれない。

繰り返すことで、もっと深い知識をつけ、

知の財産を蓄える。

実は、そこが人間の強み

といっていいのではないだろうか。

知識をつけただけで終わらない。

その先へ、その上へ、進化を求める。

それができるからこそ、人間。

もし、自分が知識をつけることを

止めてしまっていたら、

進化が止っている時だと思っていい。

もっと知識を求めていたら、

まだまだ進化する。

いちばん簡単に自分が進化しているか

判断する方法だと思う。

孤独は成長へのトンネル

 

(今日のコトバ)

 

孤独な夜は、

旅立ちの朝の準備支度のためにある。

 

 

 

 

何か目標に向かって、

追い求めていると、

孤独になったり、寂しくなったり、

やりきれない気持ちになることもある。

うまくいかなくて、

自分の力に嫌悪を感じて、

むなしくなって、、、、、、。

いまの状況を憂う。

だが、その時こそ、

自分が大きく成長している時。

「明けない夜はない」

「夜明け前がいちばん暗い」

目標に挑んでいて、

もう少しで達成するという時は、

そんな状況になる。

だからこそ、

目標の途中で孤独になっている人は、

夜明けは近いと思って

ふんばってみよう。

案外、光が見えてくるかもしれない。

光が見えないまでも、

状況を冷静に分析できれば、

それほど孤独にならなくても

すむかもしれない。

そして、間違いないのは、

孤独は成長へのトンネル。

そこを抜ければ光ある場所へ

たどり着くはずだ。

 

勇気は生物

 

(今日のコトバ)

 

勇気は使わないと、

いちばんはじめに錆びてしまう武器である。

 

 

 

 

勇気を使う時は、

人生の中でも限られると思う。

その使うべき時に、

勇気を使えないと、

まったく役に立たないものになったり、

もう一度、勇気を出せといわれても、

出せないものになってしまう。

つまり、勇気は、

もっとも腐りやすい生物ともいえる。

その瞬間が勝負。

時間が経ってしまうと、

価値が無くなってしまう。

そう思うと、

勇気を発揮しなければならない時は、

必ず勇気を発揮しなければ意味がない。

勇気。

人生の大事な時に必要となるもの。

そこで、勇気を発揮できる状態にする

ことが大切。

そのために人生を修練する。

勇気を出すために、

心技体がコントロールできるようにする。

途轍もなくハードルの高いものもあるだろう。

そこを乗り越えるために、

人生の時間を使うのだ。

以下同文ではない人生がある

 

(今日のコトバ)

 

以下同文というあなたの人生なんて、ない。

 

 

 

 

卒業シーズンだ。

式の後、一歩門を出ていくと、

その後、人生が大きく変わっていく。

目指した方向に邁進できる人、

時間をおいて再びトライしようとする人、

何も決まっていない人、、、。

様々だ。

卒業証書の決まり文句のように、

「以下同文」なんていう人生は

ひとつもない。

一つ一つの

かけがえのない人生があるのだ。

だが、若いうちは、

そのことがわからない。

時間を有効に使わないで、

人生を浪費することも多い。

振り返るとわかる、

若いうちの時間の浪費ほど、

もったいないことはない、と。

有効に使えば、

どこまでも可能性がある。

どこまでも成長できる。

年をとっては

できないことが、

若いうちならできることがある。

だからこそ、若さにある膨大な可能性を、

以下同文ではない人生に投入する。

そのことを忘れずに生きるのだ。

 

 

意欲の源泉に失敗

 

(今日のコトバ)

 

失敗は、未来をかじっている。

 

 

 

 

何度も、何度も、

人は失敗を繰り返す。

特に、新しい挑戦であれば、

失敗は絶対ともいえる。

失敗。

字面はあまりよくない文字。

だが、この失敗ほど

人間の成長に欠かせないものはない。

失敗があったからこそ、

成功が導き出せた経験が

誰にもあるはずだ。

もっというと、

失敗という経験値、

あるいはビッグデータがあるからこそ、

夢や目標に大きく近づく。

つまり、失敗することで、

少しだけ夢や未来を

感じていることもある。

場合によっては、

夢や目標を少しだけ

手でつかんでいることもある。

そう考えると、

失敗ほど人生に必要なものはない。

もし失敗を毛嫌いする人は、

失敗の有難味を知らないのだ。

人生は、成長して

夢や目標を達成できると楽しい。

生きる意欲がわいてくる。

その意欲の源泉が失敗にある。

そのことを忘れてはいけないと思う。

幸せに気づく

 

(今日のコトバ)

 

小さな幸せをずっーと持っていることほど、

大きな幸せはありません。

 

 

 

 

幸せの大きさなんてわからないけど。

生きていると、大きな良い出来事があって、

それをもって幸せだと思ったりする。

受験に成功したり、大会で優勝したり、

就職が内定したり、昇進したり。

わかりやすい人生における幸せがある。

ただ、幸せはそれだけではない。

日々の暮らしの中で、

あたりまえの幸せもある。

毎日会って、喫茶店で話す友人との時間。

夕食を囲む家族との時間。

会社帰りに一杯飲みに行く時間。

趣味の仲間と遊ぶ時間等々。

日々の中であたりまえのことが、

実は、幸せなのだ。

それは、体調を壊したり、

スランプに落ちたりするとわかる。

いちばん取り戻したいものは何か?

それは、それまでの普通の毎日。

つまり、普通の毎日に

しっかり幸せが息づいているのだ。

だからこそ、幸せは大きさだけではないと

気づくべき。

あたりまえのような

毎日の時間に幸せがあることを。

 

 

やさしく正論を

 

(今日のコトバ)

 

正論をスローカーブで投げてもいい。

 

 

 

正論。

まっとうな論で、

誰もが納得する。

ただ、人生の様々な場面で、

まともに正論を投げかけられると、

息苦しくなることがある。

「そんなに正論で責めるなよ」

「正論なのはわかっているよ」

「正論だけがすべてじゃないだろう」等々。

一度ぐらい、

こんな言葉を発したことがあるはずだ。

正論が邪魔になる。

正論ばかりが正しい選択ではないだろうと

思うのだ。

そんな時、言い方を変えると

納得させることができる場合がある。

伝えることは同じだが、

柔らかく話してみる。

あるいは、正論以外の論も話しながら、

正論の正しさを伝えていく。

つまり、直球ではなく、

緩急をつけた伝え方を選択する。

そのことで、まっすぐ過ぎる正論が、

相手に素直に伝わることがある。

正論を伝える時こそ、

まっすぐだけでなく、

やさしく伝える方法も模索する。

大切なことだと思う。