一言「できる」といえばいい

 

(今日のコトバ)

 

「できない」という人が

となりにいたら、

チャンスが舞い降りたのだ。

ただ一言「できる」といえば、

チャンスは自分のものになる。

 

 

 

一言、

「できる」

「できない」ということが、

人生を大きく変えてしまうことがある。

「できる」と答えれば、

大きな未来が広がっていく。

反対に、「できない」というと、

自分の世界を狭めてしまう。

ほんの一言かもしれないが、

振り返ってみると、

人生の分岐点になる。

さらに、誰かが「できない」といった時、

自分のものとして「できる」といって、

チャンスがまわってくることもある。

もちろん、自分の実力では

到底できないということに、

大やけどすることもある。

そこまでのレベルに手を出す必要もないが、

手を出せば届くくらいものだったら、

「できる」といってしまっていい。

それが人生の未来の扉を開く。

自分にとって有意義な人生を

築いてくれる可能性が広がる。

「できる」

たった一言、人生にとって大切なのだ。

正論も、ひとつの持論

 

(今日のコトバ)

 

正論で追いつめると、

異論の行き場がなくなる。

 

 

「その人がいうことは、いつも正論」

そういわれる人がいる。

まわりにいる人も正論と認めている。

正しい意見をいっている。

ただ、正論をいう人にありがちなのは、

正論を押し付ける人。

・・・・これが正解だろ!

・・・・これだ正しいんだ!!

ゆえに、キミの意見は間違っている!

そう聞こえる人がいる。

そんな言い方をされると、

自分の意見がいえなくなってしまう。

自分にも異論があるし、

正論だと思っていることも、

正論という保証はない。

立ち位置が変われば、

正論でなくなることもある。

そう思うと、

自分でも、誰でも、

正論だと思って発言することはいいが、

正論だと思ったことを押し付けるのは、

まわりの風通しをワルくしてしまう。

正論は、正論こそ、押し付けない。

その正論は、自分の正論であって、

ほんとうの正解かわからない。

正論も、ひとつの持論。

そのことを忘れてはいけない。

続けることは、かっこよさ

 

(今日のコトバ)

 

地道な努力こそ、

最高のパフォーマンスである。

 

 

 

コツコツと努力する。

まわりがどう思おうと、

何をいおうと、

着実に前へ進む。

自分が目指す目標に向かって、

一途に邁進する。

そんな姿を見せる人がいる。

たくさんではないが人生で何人か

出会ったことがある。

そんな人をかっこワルいと

思ったことはない。

やっていることが泥臭くても、

鈍臭くても、強い意志を感じる。

ゆっくりでも前へ進む姿が

美しいとさえ思う。

結論をいうと、

努力を続けられる人は、

最高にかっこいいといえる。

何をやるにしても、

何を目標にするにしても、

簡単にあきらめる姿はかっこよくない。

続けるということは、

一つのかっこよさ。

そして、それは誰でもできること。

もし、いま、自分の生き方が

かっこよくないと思っているなら、

一つのことをし続けてみよう。

続けることは、

最高のパフォーマンスになる。

かっこよく生きるための道になるはずだ。

生きることも、明日も、希望を内包している

 

(今日のコトバ)

 

人間は、

希望のしっぽを命果てるまで

離さない。

 

 

生きていると、

いつまでも希望を持っている。

具体的でないかもしれない。

小さいかもしれない。

ただ、人は命果てるまで

希望を持っている。

「何かをしたい」と思った時、

そこに希望が生まれる。

時が最後の日まで進むように、

希望も最後の日まで持っている。

「希望と共に生きていきたい」

と考える必要もなく

希望と生きている。

もしかすると、

生きるという意味の中に、

希望は内包されいるのかもしれない。

たしかに、

少し長く生きてみると、

人生のどこかに希望があった。

そして、希望があるから明日に迎えた。

生きることもそうだが、

明日にも希望は内包されている。

つまり、前向きに生きていくすべてに、

希望は内包されている。

だからこそ、

希望を大切にしたい。

自分の持つ希望に向かって

全力で生きていく。

それこそが、

希望を大切にする気持ちなのだ。

 

 

ライバルより自分に還る

 

(今日のコトバ)

 

嫉妬は、

ライバルが射程距離に入った時に

生れる。

 

 

 

何にも感じない人に、

嫉妬心はわかない。

勝とうとか、

負けるかもしれないとか、

考えることもない。

どんな生き方をしようと、どうでもいい。

ただ、

これが自分のライバルとなると話は違う。

その人の一挙手一投足が気になる。

気になり出すと、

自分との比較をはじめる。

はじめたところから、

嫉妬心は生まれる。

特に、

自分より恵まれていると思うところに

敏感になる。

敏感になるだけならいいのだが、

そこにひがみが入って、

中傷、誹謗、陰口などで、

陰湿に相手を攻撃してしまう。

かっこワルいことこの上ないし、

汚い人格と思われてもしかたないと思う。

ただ、ライバルには綺麗事では

すまないこともある。

その気持ちをどうコントロールするか。

一ついえるのは、

嫉妬している時、

自分の動きは止まっていることが多い。

ライバルを羨ましがっているだけで、

自分は成長していない。

そこが、ポイント。

嫉妬心を消すために、

あるいは、嫉妬心を遠ざけるために

自分の目標に向かって動くこと。

もし、ライバルそのものが目標なら、

努力目標として追いかければいい。

やることは自分の目標ために

行動すること。

ライバルの足を引っ張ることではない。

ライバルの足を引っ張っている時は、

自分の足も動いていない。

そう思って、

自分のやるべきことに集中する。

嫉妬心から脱却するには、

ライバルより自分に還る。

その意識が大切なのだ。

責任をとってくれる人の下の、自由

 

(今日のコトバ)

 

誰かが責任をとってくれる世界で

生きることを、

自由というのかもしれない。

 

 

 

「自由って、何だろう」と思う。

何もかも規制がなくて、

何をやってもいいことでないということは

わかっているけど、定義するのは難しい。

ただ、長く生きていてると

自由を感じる瞬間がある。

それは、

自分以外の誰か責任をとってくれて、

自分はその責任の範囲内で

何をやってもいい状況にある時、

自由を感じる。

もっというと、自由と共に

やる気も感じる。

自由+やる気。

生きていく上で、

大切な二つの気持ちを

一気に自分のものにできる。

誰かが責任をとってくれることは、

まわりの人にそれだけの力を与えているのだ。

責任の大きさで、

一概にいえないこともある。

ただ、責任のある人は、

それだけ大きい存在であることは

理解していい。

責任をとってくれる人の下で

行動する楽しさを忘れてはいけない。

完璧を、完成を、疑う

 

(今日のコトバ)

 

完璧だって、

ぶっ壊さなければ

道はつくれない。

 

 

 

もう出来上がっている。

何も変更することはない。

維持だけしていればいい。

状況はそのままのでいいといっている。

だが、そんな時に限って、

どこかに綻びが起こっている。

目に見えないほどのひびが入っていて、

やがて大きな亀裂になる可能性もある。

また、いま完成されているものに

従っていては、

新しいものはつくれないということもある。

一度、破壊してから創造する。

必要となるのは、

完璧を、完成を、疑う。

そこから新しい道が見えてくる。

いつもどこかで何かが起こっている。

その意識を持って、

確かめてみる、壊してみる、

つくり直してみる。

状況をよくするために大切なことだ。

 

どんな夢も、あせることなく、あきらめることなく

 

(今日のコトバ)

 

人生のスタートはみな違うのだから、

あせることはない。

人生のゴールはみな違うのだから、

あきらめることはない。

 

 

 

人生の夢を描く。

スタートとゴールも決めてはじめる。

ただ、そのタイミングは、

人それぞれ。

夢にもよるが、

子供の頃から

何十年も賭けて

ゴールを目指すかこともあれば、

大人になってからはじめることもある。

スポーツ選手やミュージシャンは、

子供の頃からはじめることが多い。

反対に、ビジネスに関する夢は、

ほとんどが大人になってからのスタートだ。

同じ夢でも、

個々人でバラバラにはじめ、

バラバラにゴールする。

そう考えると、

どんな夢でも、

あきらめることはなく、

あせることもない。

自分のタイミングで、

スタートとゴールを決めればいい。

時に人は、

まわりの人、まわりの環境に惑わされて

あせってしまう。

そんなことより、

自分のタイミングで夢を目指す。

自分のペースで夢を叶える。

そんな生き方が大切だと思う。

あたたかい遣い手になろう

 

(今日のコトバ)

 

気と、言葉と、心の、

あたたかい遣い手になろう。

 

 

自分にとって、

気持ちよく過ごせる環境は

何だろうと思う。

それは、まわりの人が、

気遣い、

言葉遣い、

心遣いを丁寧にしてくれる人が

いるではないか。

もっというと、何かをしてくれる時に、

あたかさを感じさせてくれる人が、

まわりにいてくれることだと思う。

もちろん、過剰に気を遣われたり、

言葉や心を遣われると困ることもあるが、

それでも、遣われないよりはいい。

だからこそ、

自分も、気と、言葉と、

心のあたたかい遣い手に

ならなくてはいけない。

まわりの人に

あたたかい遣い手を期待するなら、

まず自分から遣い手になる。

自分が気持ちよい環境で過ごすための

それが第一条件となる。

「いい言葉をおくれば、

いい言葉が返ってくる」

という格言を聞いた気もする。

まずは自分から、

気と、言葉と、心を遣う。

大切なことだと思う。

打率という精度より、打席という挑戦の数

 

(今日のコトバ)

 

打席に立たなければ、

絶好球だって見逃すしかない。

 

 

プロ野球の世界では、

打率が高いことが実力の証明になる。

2割5分よりは、2割8分。

2割8分よりは、3割。

3割を継続的に打てる人は、

打者としての実力があると思われる。

ただ、人生はどうだろう。

そもそも、3割の確率で

人生の勝負事に勝てる人はいるのだろうか。

勝負事にもよるが、

3割など夢の数字。

1割でも大成功といえる。

さらにいえば、

人生で大切なのは、

打率よりも打席。

どれだけ人生の勝負事で打席に立てるか。

打席に立つことが多ければ、

打ち返す数が増える。

打ち返せば、その勝負に勝つ可能性も増える。

いま、人生の動きがよくないと思っている人は、

とにかく、打席に立とう。

挑戦することをはじめよう。

そこが、人生を大きく変えるきっかけになる。

打率という精度より、打席という挑戦の数。

そのことを忘れてはいけない。