涙は、幸せな時間があったことの証

 

(今日のコトバ)

 

涙を流しているということは、

それまでに、

かけがえのないものがあったということ。

とても幸せだったということ。

 

 

 

悲しくて涙を流す。

なぜ、涙が流れるのだろう。

それは、それまでの時間が、

とても愛しいものだったから、

とてもかけがえのないものだったらに

他ならない。

つまり、

とても幸せな時間があったということ。

何んでないこと、まったく関係のない人のことで

涙は出ない。

涙は、幸せの時間があったことの証。

悲しい涙は、感謝の涙にもなる。

だからこそ、

涙が流れるということは、

人生の時間を前向きに

リセットさせると考える。

一生は短いようで長い。

リセットが必要な場面もたくさんある。

涙は、その時、

とてもいい役割を果たすのだ。

 

 

いい想い出と生きる

 

(今日のコトバ)

 

想い出は、治外法権である。

 

 

人には、想い出がある。

自分自身の記憶の中から再現される。

大半が、いい想い出となり、

また、辛かった、苦しかった記憶も、

笑い話という想い出に変換される。

想い出は、自分の記憶に守られている。

たとえ、その記憶が間違っていても、

同じ状況にいた人間から、

違うと指摘されても

記憶はいうことを聞かない。

その場では、

「そうだっけ?」とはいうものの、

自分の記憶はアップデートしない。

一度、自分の記憶が想い出になると、

治外法権のように、

誰かがいじることができないのだ。

だからこそ、

いい想い出をたくさんつくって

生きていきたい。

それこそが、人生を有意義にする要素。

年をとればとるほど、

いい想い出に囲まれて生きていきたい。

そのために、いい想い出を。

 

限界は人生のテスト

 

(今日のコトバ)

 

限界は、

進化の一歩手前でテストする。

 

 

 

限界は、ある。限界は、ない。

人それぞれ考え方があるだろう。

ただ、限界は個人差があるし、

口にした瞬間できるものでもある。

ほんとうに限界?

という問いも自分や他人が思うこともある。

そう考えると、

限界という気持ちは、

テストのような気もする。

できるのか?

できないのか?

できないとあきらめたら、

そこが限界点。

できるとのり越えれば、

限界はさらに延びる。

自分がさらに成長できる。

限界という気持ちの手前か、

その先かが、

その後の人生を決める。

のり越えた人は、

もっと人生を大きなものにできる。

限界。

無限とはいわないでも、

トライし続ければ

越える可能性のあるもの。

だからこそ、

限界は人生のテストだと思うのだ。

 

昔話が多いのは、イケてない証拠

 

(今日のコトバ)

 

想い出を眺めているうちは、

いまある幸福を見ることができない。

 

 

 

人は、想い出話をする。

楽しく、愉快に、人生を振り返る。

同窓生と会ったり、

昔の仕事仲間と会って話す。

そういった会の時はいい。

だが、会の時ではなく、

話しの中心が

いつもいつも想い出話ばかりになると、

楽しいではすまない。

自分がイケてない時期に

入っているということだと思っていい。

「昔はよかったな」と

話してしまう。

では、「いまはどうなの?」

と聞かれると、答えられない。

ただ、いい状況ではないが、

自分がイケてない一つの指標として、

役目は果たてくれる。

もし、いま自分が昔話が多くなっていたら、

ちょっと気をつけた方がいい。

何かイケてない状況にあるのだ。

反対に、いま現在の話がたくさんあって、

盛り上っていけるなら、

自分はイケていると思っていい。

人生は、

イケてる時もイケてない時もある。

その基準を知る時に、

昔話の多さで決める。

一つの自己確認の方法なるはずだ。

相手のことを考えて付き合う

 

(今日のコトバ)

 

大嫌いなあいつにも、

大好きな誰かがいることを忘れるな。

 

 

どうしても好きになれない人がいる。

意見が合わない、

気持ちが合わない、

生理的に合わない等、、。

会うだびに衝突したり、

嫌味や皮肉をいってしまう。

場合によっては、

人間性にかかわることも、、。

だが、それは自分の思い。

まわりの人からみれば、

自分の方がワルいと思われてたり、

どっちもどっちと思われることもある。

「好きになれない」

仕方ないことだ。

ただ、好きになれない相手にも、

好きだと思っている人はいる。

その人を愛している人がいる。

その人が救いになっている人がいる。

そう思うと、

好きになれないからといって、

攻撃の対象にしてはいけない。

ちゃんと向き合っていく。

誰でも好きになれるなれないで

差別してはいけないのだが、

意識しないと

相手を不愉快にしてしまう。

相手を敬うために。

相手のことを愛する人のために。

人と人の付き合い方をしよう。

 

その思いは、自分一人ではない

 

(今日のコトバ)

 

誰一人として、

重荷を背負っていない人はいない。

 

 

ほとんどの人は、

平凡な顔をして生きている。

楽しいこと、

あたりまえのことばかりではなく、

悲しいこと、苦しいことだって

かかえて生きているのに、

平気なように見える。

ただ、誰一人として、

人生の課題を持たずに

生きている人はいないはず。

だが、自分がしんどいと、

自分一人がつらい目にあっていると

考えがちになる。。

そして、自分ばかりを

どんどん追い込んでしまう。

その時、どう解決すればいいかというと、

やっぱり、自分だけが悩んでいるのではないと

思うことからはじまる気がする。

一人ではないと思うと、少し落ち着ける。

たとえば、病気やケガをした時、

自分のまわりに同じ状況にある人、

あるいは、経験した人の話を聞くと

ホッとする。安心することもある。

「あの人も同じ痛みを知っているんだ」と。

もちろん、つらさや痛みは人それぞれ違う。

だが、「みんなも悩んでいる」と思うと、

救われることも多い。

だからこそ、

同じ悩みをかかえている人が

いることを知る。

そして、大前提として、

悩んでるのは

自分一人ではないと思うようにする。

そう思うことで、

救われることが多々あることを

忘れてはいけないのだ。

ここぞという時、信じて行動する

 

(今日のコトバ)

 

疑っている人は、

信じている人より強くなれない。

 

 

 

半信半疑でやってみる。

疑いながら様子をみる。

確信が持てない人は、

全力ではなく

恐る恐る行動する。

そうなると、

信じて全力でやる時とは、

力の入れ方が違う。

全力が100%の力だとすると、

半減の力しか発揮できないことも多い。

何かに挑む時、

状況によって、

気持ちは違うと思う。

ただ、ここぞという時、

疑いながら行動すると

いい結果は得られない。

できるだけ情報を集めて、

信念を持って、

全力を発揮できる環境をつくる。

とにかく、自分の精一杯で挑む。

そんな心がけで生きていく。

疑って生きるより、

より面白い人生になるはずだ。

今日を全力で生きることが、明日への指針になる

 

(今日のコトバ)

 

今日、全力を尽くすことが、

明日への種まきになる。

 

 

何が明日へプラスになるのだうろか。

考えてみると、

希望を持って、

計画性を持って、

前向きに、

戦略的に生きる等、、。

すべて間違いではない。

ただ、どれもが未来のことなので

漠然としてしまう。

あたりまえだが、

未来に対して腹のくくりが

足りないような気もする。

そう思うと、

一つだけ正しいことがあるとすれば、

今日を全力で生きて、

明日へつなぐということ。

今日までの積み重ねが

明日への財産になる。

そこだけは、

それほど間違っていないと思う。

人生、生きていれば

いろいろなことがある。

それでも、今日一日を全力で生きていく。

それこそが、

明日幸せになる礎になる。

そう信じることが生きる指針になると思う。

良心に従った道を選ぶ

 

(今日のコトバ)

 

 

良心の声は、

小声になるから

耳を澄ませて聞いてあげよう。

 

 

 

誰にも良心がある。

「これが正しい」

「これをやってはダメだ」

自分が良いと思う基準を

心は持っている。

ただ、自分の置かれている状況で

良心のまま行動するか、

良心を無視して行動するか分かれてしまう。

ワルいことだとわかっていて、

良心と違う道を選択してしまうのだ。

その時、どれだけ良心の通り生きれるか。

それが人間性にかかわってくる。

どんな状況でも

良心の通り生きなくてもいいが

人として道を踏み外してしまうと

良心が騒ぎ出したら、

絶対に良心に従う強い気持ちを持つ。

人生は必ず生きるための選択を迫られる。

その時、ちゃんと良心に従った道を

生きていきたい。

 

「誰かのために」は気持ちいい

 

(今日のコトバ)

 

「誰かのために」を目標の枕詞に。

 

 

 

自分のために、

自分だけに、

自分さえ良ければ、、。

そう思って生きることは多い。

綺麗事ではいい人を演じても、

本音は自分の得だけを考えている。

その結果、自分だけが得をすると、

ワルい気持ちは少ない。

ただ、凄くいい気持ちになるかというと、

そうでもない。

何かが欠けている。

素直に喜べない。

心の奥の奥では、

気持ちが落ち着かない。

なぜか?

それは、自分以外の誰も

得にしていないことにある。

自分が得しても喜ぶのは、

ほとんどの場合、自分だけ。

それではつまらない。

もっというと、得は自分のみだが、

幸せとなると、自分一つでは成り立たない。

分かち合える誰かがいて欲しいものだ。

よく誰かのために何かをしてあげると、

感謝されるされないにかかわらず、

自分が気持ちいいことがあると思う。

感謝されれば、さらに気持ちよくなる。

自分一人で得したより、

よっぽど気持ちいい。

そう思うと、

一つ一つの成果を求める時に、

自分の気持ちと同時に

「誰かのためになる」ことを

目標にするのはワルくない。

自分が気持ちよくなって、

誰かも気持ちよくなる。

その結果、また、自分が気持ちよくなる。

二倍も、三倍も、

自分が気持ちよくなれる。

こんな世知辛い世の中で、

それほど気持ちよくなれるものも少ない。

「誰かのために」を意識して

生きていこう。