人はカッコつける生き物

 

(今日のコトバ)

 

人生、カッコいい日なんて、一日もなかった。

それでも、カッコをつけて生きるのが人間なんだ。

 

 

 

 

生きていると、一日の中で、

様々な出来事がある。

人に誇れることもあるが、

それは、ほんの少しだったりする。

人にいえないカッコわるいことの方が圧倒的に多い。

失敗する。負ける。ミスをする。

体調不良になる。余計なことをしてしまう等。

カッコわるいことが一つもない日等、

それこそ奇跡だ。

それでも、一日一日、生きている。

眠りから覚めて、新しい一日がはじまれば、

また、新しい気持ちの自分としてカッコをつける。

つまり、人は、カッコをつけて生きる生き物。

否、カッコをつけなれば生きられな生き物なのだ。

だから、昨日のカッコわるさ等、忘れていい。

今日のカッコわるさもおりこみ済み。

そのカッコわるさを糧にして、

人は成長する。

カッコわるさとは、

人を育成する素と考えればいい。

人生は、カッコわるさの上に成り立っているのだ。

教えるから、大切なことがわかる

 

 

(今日のコトバ)

 

後輩だった僕らは、

知らぬ間に先輩になって、

お手本のふりしながら生きている。

 

 

 

 

時間は過ぎていく。

時代も変わっていく。

新人だった若者も、

10年も経てば中堅になり、

20年も過ぎるとベテランと呼ばれる。

いくら自分が新人の気持ちでいても、

10年社員をまわりは新人とは思わない。

中堅社員とまわりは判断する。

自分のポジションは、

まわりの目に決められてしまうのだ。

そして、そのポジションにつくことで、

ほんとうにそのポジションに

ふさわしい人間になっていく。

玉突きではないが、後輩ができるから

先輩にならざる負えない。

だから、しっかりしなければならない。

なにか受動的ような気がするが、

決して、わるいことばかりではない。

一つの例をあげれば、

納得する部分もあると思う。

それは、後輩、部下に何かを教える時、

先輩、上司として、

教え伝えなければならない義務や仕事がある。

義務や仕事として、教えるために、

いろいろ考えているうちに、

本来の大切なことがわかる。

教えるから、大切なことがわかる。

伝えなければいけないことが、わかるのだ。

若いころのやり方が予習だとすると、

後輩、部下に教えることは復習になる。

どんなことでも、

教えたり伝えたりするには、

経験と知識がいる。

その経験と知識がどれほどあるかを知るには、

後輩、部下を育てることが一番わかる。

そう考えると、

押し出されて先輩になることにも意味がある。

お手本ができるふりするのも

わるいことではないのだ。

 

その状況がバランスをとっている

 

(今日のコトバ)

 

悲しみをかかえているから、

浮足立たずに生きていけるんだ。

 

 

 

人生、一皮むけば、

他人にいえないこがたくさんある。

顔では笑っていても、

途轍もない悲しみを

かかえて生きている人もいる。

もちろん、

苦しみや貧乏の悩みをかかえている人もいる。

それらのネガティブな要素は、

決して人生を明るくはしない。

ただ、こうも考えられる。

悲しいことがあるから、

苦しいことがあるから、

貧乏だから、

浮足立って生きることはない、と。

楽しいばかりでいれば、

足元を省みないで度を越したバカをしてしまう。

ラクなことばかりでは、

ガマしようとしなくなる。

お金がたくさん懐に入っていると、

ついつい必要のないもので散財し、

借金することになる人もいる。

誰でも人生は、楽しく、ラクで、

お金があれば、それに越したことはない。

だが、その反対の状況である場合、

人生がオーバースピードにならずに、

ちゃんとブレーキもかけて、

安全運転を考えなければならない。

つまり、アクセルを踏んで、

スピードをアップしなければならない時があるが、

それと同じぐらいブレーキが必要な時もあるということ。

人生は一辺倒ではない。

そのことを忘れないためにも、

ネガティブな状況も人生には必要なのだ。

 

 

本気の一人がいればいい

 

(今日のコトバ)

 

本気な者がいれば、

一人でも最大勢力になる。

 

 

 

プロジェクト、イベント、試合等を行う時、

きっちりと成果を出すのはどんな時だろう。

条件面ではいろいろあるだろう。

ただ、思い描いた成果を出すには、

本気で取り組む人がいるかどうかが鍵になる。

大義名分上は、みんなやる気があって、

必死で取り組むというが、

たいがいおいて、本気で取り組む人あまりいない。

まず、やる気のない人が確実にいて、

さらに、上からいわれたからやる人がいる。

また、飯のタネだからやるとしいう人もいて、

それらを集めるとかなりの勢力になる。

わるい見本の組織では、

上記だけで全員揃ってしまうこともある。

反対に、成果をあげる組織とはどういうものだろうか。

確実にいえるのは、

その組織に本気で取り組む人がいるということ。

数は問題ではない。一人でもいい。

否、二人でも、三人でも、多いに越したことはない。

ただ、一人でもいればいい。

その人が、熱い気持ちで行動すれば、

困難な課題も乗り切れる。

なんとか成果をあげようと、

難局を乗り切ろうと切磋琢磨する。

たった一人。それど最大勢力になりうる力。

本気の力は、想像以上の膨大な力を生む。

だから、何かのプロジェクトを組む場合、

必ず本気の人を参加させる。

その人がいれば、

プロジェクトはいい方向へ進んでいく。

一人の本気は、

成果を出すプロジェクトの必須項目なのだ。

 

 

生き抜くことは、勝ち抜くこと

 

 

 

(今日のコトバ)

 

敗北したことはあっても、

敗北者になったことは、人生、一度もない。

 

 

 

長い人生、一日も休まず生きてきた。

悲しいこともあれば、苦しいこともあった。

嫌なこともあれば、辛いこともあった。

それでも、なんとか乗り切って生きてきた。

それは、人生の日々を勝ち抜いてきたともいえる。

かっこはどうあれ、ちゃんと生きてきた。

ただ、人によっては、自分の置かれた状況を嘆いて、

敗北者だ、負け犬だと思っている人がいる。

それも間違えとはいえないかもしれない。

だが、負けていると思ったら、

モチベーションは上がらない。

もっというと、自分が不幸だと思ったら、

生きることも前向きになれなくなる。

だとしたら、生き続けていること、

それだけでも素晴らしいことだと設定する。

生き抜いたことは、勝ち抜いたこと。

生き抜けたことは、

誰にも負けていない。

そう思って生きていく。

人生を前向きに生きるためには、

一つの考え方になるはずだ。

 

運を自力で引き寄せる

 

 

 

(今日のコトバ)

 

運のせいにしているうちは、

運の恩恵に与れない。

 

 

 

特に、運が無いという人に多い。

運で勝負が決まった、そして、

自分は運が無かったために、

勝てなかった、と思っている。

自分の姿勢、自分の能力、

自分の努力はさておき、

運が左右した、と思っている。

だが、ほんとうに運が作用したのだろうか。

少なくとも、まわりで見ている人は、

そうは思わっていない。

たいていまわりの人は、当然の結果だと思っている。

もちろん、

運が味方しなかったと思えるケースはある。

ただ、そう思うケースは、あくまでも自分以外の

第三者が思うことであって、

自分が思うことではない。

「自分の力が及ばなかった」と思えれば、

少なくなくとも、

その先の挑戦を運のせいにすることはない。

だから、もし、

自分の発言が運のせいばかりにしていたら、

自分に何かの問題があると判断しよう。

自分に何か足りないものはないか。

自分に改善すべきものはないか。

自分に努力すべきものはないか。

そこをクリアしてから、本気で挑む。

運を運任せにせず、

自力で引き寄せるぐらいのつもりで生きてみる。

運が微笑む。

運を味方にするまで走ってみる。

その意識改革ができるか否かで、

人生は変わっていくはずだ。

言葉には裁量がある

 

 

 

(今日のコトバ)

 

言葉は、言葉ほど立派でなくていい。

 

 

 

言葉に縛られる。

一つの言葉によって、

人生や人格までもが縛られる。

良い意味では、夢、希望、目標など、

自分の人生を成長させる言葉。

悪い意味では、罪、絶望、怠慢など、

自分の人生を退化させる言葉。

それらの言葉は、

人生を縛る力を持つことがある。

ただ、言葉は、言葉だ。

考え方によっては記号でしかない。

そこにシリアスになって、

生き方までまとめる必要がないともいえる。

だが、人生のアイコンとして、

生きるためのランドマークとして、

いつも輝いていてほしいと思うこともある。

言葉の捉え方は、自分。

言葉の選択権も、自分。

自分の裁量で使えばいい。

言葉に助けられて、

言葉に裏切られて、

言葉に背中を押され、

言葉に止められる。

言葉には柔軟性がある。

そして、柔軟に使うのは自分なのだ。

 

努力は無限にできる

 

 

 

(今日のコトバ)

 

努力は限界がない分、

才能より伸びしろがあるんだ。

 

 

 

俗に、天才型か、努力型か、といわれる。

人間の能力を大きく二つに分ける。

「何も教えなくてもできてしまう」

「何かをやらせると卓越した能力を見せる」

才能があふれて見えるような人を天才型という。

反対に、「はじめは何をやらせても

成果は出せないのだが、着実に頑張って

できるようになる」

「人の数倍も修練して、人より秀でた力をつける」

あきらめない根気を身に着けた人を努力型という。

ほんとうは、この二つだけで

分けることはできない。

天性のものがあるのだが活かしきれない人がいれば、

努力型なのだが努力が足らない人もいる。

古くなるが、長嶋が天才型、

王が努力型などともいわれたが、

二人とも才能は図抜けていたし、

努力も想像を絶するぐらいしていたはず。

二人とも努力する天才だったのだ。

だから、簡単に才能と努力では割り切れない。

ただ、一つだけいえることは、

才能は生まれ持ってどうしようもないことも多いが、

努力は無限にできるということ。

あきらめない気持ちがあれば、

いくらでもできる。

人生では、努力する力が、

未知の扉を開けていくこともある。

生まれ持っての才能では、

とうてい出来ないことも、

出来るようになることがある。

つまり、才能より努力の方が、

伸びしろがある。

努力の力を思いっきり信じていいのだ。

置かれた場所を檜舞台に

 

 

(今日のコトバ)

 

手の平で踊らされているなら、

手の平を檜舞台にしろ。

 

 

 

自分の置かれている環境がある。

自分の仕事場だったり、

自分の戦いの場だったり、

自分の営業する場だったり、

自分が発表する場だったり、、、、。

自分が活躍しなければならない場。

そこで、自分のパフォーマンスを

どれだけあげられるか。

どれだけ実力を発揮できるか。

そこが人生最大の分岐点になる。

日々、普通に生きていると気づかなくなるが、

与えられた環境、与えられたテーマで、

最高のパフォーマンスをすることが

自分の評価をあげることになる。

そこで実力がなくて結果が出せない人、

本気になれなくて結果を出そうとしない人は、

人生の大きな舞台にあがることはできない。

小さくまとまったままの人生になってしまう。

だとしたら、

いま、自分置かれて場所で全力を発揮して、

結果を出すべきだ。

うまくいかないこともある。

だが、そんな時も誰かが見ている。

どこかで自分のいい部分を

見つけてくれる人がいる。

結果を出すということは、

何も、勝ったり、成功することだけではない。

いいものがあると将来性を感じさせたり、

惜しいけど光っていたといわせたり、

よく頑張っていたと思わせれば、

それも大きな結果になる。

だからこそ、いま、自分の置かれている場所を

檜舞台だと思って、

最高のパフォーマンスを発揮する。

その意識、その行動が大切。

そのことを忘れてはいけない。

 

 

動くことからはじめる

 

 

(今日のコトバ)

 

歩き出せ。

悲しみも、寂しさも、

道端に落ちていく。

 

 

 

 

何か悲しい出来事があって、

落ちこんでしまう。

打ちひしがれて、

立ち上がることができない。

心も、体も、消沈している。

人生には、そんな時もある。

元気になれないので、

どうしていいかもわからない。

時間が必要な場合もある。

ただ、時間を充分にかけられない時もある。

否、時間が充分だと思えるまで、

どれぐらいの時間が必要かもわからない。

だとしたら、なんとか気力を取り戻し、

自分を取り戻す。元気な自分になるために、

きっかけがいる。

では、そのきっかけとは何だろう。

それは、動き出すことではないだうろか。

とにかく、しんどくても、つらくても、

少しずつでいいから動き出す。

動き出すことができたら、

距離を増やしていく。

退院後のリハビリのようだが、

それでいい。

人は、動くことによって、

いろいろな細胞が動き出す。

活性化された細胞は、

自然にポジティブな思考をはじめる。

ポジティブな思考は、

自分をイキイキさせ、元気を呼び戻す。

もちろん、なかなかエンジンがかからない人もいる。

それでも、動き出すことは、

自分が復活するためのに必要なこと。

落ちこんでいる自分のために、

落ちこんでいる人生のために動き出す。

それが最初のスタートだ。