ガマンが未来を舗装する

 

 

(今日のコトバ)

 

ガマンすることは、人生をまとめること。

 

 

 

 

生きていく様々な場面で、

人はガマンをしいられる。

ちょっとガマンしてすむものと、

じっと長くガマンし続けなければ

ならないものとがある。

ただ、どんなガマンも、

人生がより良くなるように、

もっというと、散らからないように、

まとめているものといえる。

ガマンすることをやめてしまうと、

人生はどうなるかわからない。

わるい方へ向かう公算が高い。

そう思うと、人はガマンする。

このガマンという機能があるから、

それこそ人生が丸く収まっているともいえる。

もちろん、ガマンは楽なものではないから、

自分に負担をかけることも多い。

だが、このガマンがするからこそ、

人生というデコボコの未来を

舗装して生きてこれたのだ。

だからこそ、人生においてガマンは大切。

どこかで息を抜くことも忘れずに、

ガマンすることを覚えておく。

人生をいい道に舗装するために

必要なことだ。

 

記憶は、人生最高の相棒になる

 

(今日のコトバ)

 

時間は、止まることを教えられず生きる疾走者。

記憶だけが時間を止めて、歴史に変えていく。

 

 

 

日々、生きていると、

時間は止められない速さで

過ぎていく。

年齢を重ねれば重なるほど、

その速さが増しているようにも思う。

本当は、一秒、一分、一時間という同じ速さを

続けて進んでいるだけなのに、

感じる速さは、まったく違って感じる。

年齢だけでなく、

楽しい時間は短く感じられるし、

苦しい時間は長く感じられる。

同じ速さで時間を刻んでいても、

人が体感すると、違った長さになった気がするのだ。

そう思うと、

自分の中で信じられるものは何だろう。

それは、それまでに築いてきた自分の歴史。

自分が、人々が納得する

記憶という歴史しかないだろうと思う。

時間は、振り向かず走り過ぎていってしまう。

そこで自分のより所になるのは、

記憶という歴史。

記憶こそが、

この先の人生のペースメーカーになる。

記憶は、人生最高の相棒になるのだ。

 

ルールと行動

 

(今日のコトバ)

 

規則違反するバカがいるから、

もっと重い規則をつくられてしまうのだ。

 

 

 

どこにでも最低限のルールがある。

たぶん、はじめはたいたことのなかったルール。

言葉にすると、ゆるいルールだったような気がする。

誰もが遵守でき、罪にならない最低限のルール。

だが、一度このルールを破ってしまうと、

お上から、それ以上の重いルールがつくられてしまう。

より面倒臭く、より厳密なルールをつくられてしまう。

最低限のルールを守っていれば、

ある程度の自由も許され、

ほぼ快適に過ごせたはずだ。

その自由、その快適を、捨てることになるのが、

ルールを破るということ。

それも、場合によっては、

たった一人のバカ者のせいで、

ルールを変えられてしまうこともある。

そして、ネット社会になって、

情報過多の時代になって、

神経質にルールをつくりたがるのことが、

加速度的に広がっている。

特に、企業はコンプライアンスの名を借りて、

大きな顔でルールをづくりをする。

どんどん息苦しくなっていく。

若い人は、ある程度、コンプライアンスを

はじめから教育されているから、

順応できるかもしれないが、

もっと厳しくなれば、

人々すべてを息苦していく。

その時、人が伸び伸び生きていけるだろうか。

とても疑問に思う。

一人ひとりの人間が、

ルールとどう向き合うか、

しっかり考えて行動すべき時代のような気がする。

軌跡を途絶えさせない

 

(今日のコトバ)

 

夢の架け橋は、奇跡でつくられていない。

軌跡でつくられているのだ。

 

 

 

自分には、自分の偉業がある。

夢と呼ばれる人生の目標を達成すれば、

自分の中では偉業になる。

その人の人生、その人の生きるサイズによって、

達成までの困難さは違う。

ただ、一ついえることは、

その偉業を達成するための道程で、

奇跡はほぼ起こらない。

もちろん、一つや二つの奇跡と呼ばれる

想定外の凄いことが起こることはある。

だが、それを期待していても、

結果はついてこない。

それより確実なのは、

コツコツと一つ一つの課題を解決して

前へ進むこと。

着実に軌跡をつくり続けること。

軌跡が途絶えず続いていけば、

それが偉業を達成する道になる。

奇跡を願うのではなく、

軌跡をつくり続ける。

それこそが人生の夢という偉業を達成する

いちばんの近道なのだ。

 

 

生き抜く最低限の能力

 

(今日のコトバ)

 

生き抜く技を持っていない人から、

危ない場所へ走っていく。

 

 

 

人は、様々な技を身に着けて

人生という大河を生き抜いていく。

誰でもできるようなことから、

自分にしかできないことまで多岐な技がある。

誰にでもできるようなことと書いたが、

この誰にでもも、個人差がある。

例えば、スマホの操作ですら、

世代によって誰にでもが違ってくる。

ただ、問題は生きる上で大切な技を

身に着けているかということ。

できなければいけないことが、

できているかということ。

できないで生きていると、どんどん人からはぐれていく。

はぐれていくと、

そこには、はぐれ者専門の業者がいて、

はぐれ者に仕事を提供する。

犯罪という名の仕事を発注するのだ。

そこに手を出してしまうと、

取返しのつかないことになる。

では、どう生きればいいのか。

難しいことではない。

正しく働いて、正しく生活すればいい。

先日、逮捕されたモノマネタレントは、

父が手を差し伸べたてくれたとはいえ、

モノマネという才能があったはずだ。

それは、ほとんどの人がマネできない

優れた才能だったはず。

だが、その才能があっても、

生きるための最低限の能力は欠けていた。

そのことによって失うものは、

あまりにも多い。

それまでの積み重ねたものを、

すべてぶち壊してしまう。

だからこそ、生き抜く最低限の能力は持つべきだ。

この世の中で、普通に生きるとはどういうことか。

理性を働かせて生きることはどういうことか。

生き抜く間に、自問自答する。

何かの出来事がある度に自問自答する。

それが、生き抜く能力になるのだ。

 

 

 

 

 

 

やんちゃが礎

 

 

(今日のコトバ)

 

無謀をやったから、予防ができるんだ。

 

 

 

「昔、やんちゃをやったヤツが、

いま、結構、落ち着いた人生をおくっている」

幼なじみに会うと、

そんな話になることがある。

限度にもよるが、

この話が社会のどの分野でも通じる気がする。

言葉通り、子供のころ、

やんちゃで先生に怒られてばかりいた子供が

いい親父になっている。

若手社員の頃、上司に怒られてばかりいたのに、

管理職になると、見本のようなリーダーになる等。

若気の至りか、若さの暴走かわからない。

ただ、若き時代から小さくまとまっている人より、

少々、やんちゃである方が社会に役立っている。

それは、何も大人になったからだけではなく、

やんちゃした時代に、失敗、ミスをした経験値が

年をとって生きているからではないかと思う。

もちろん、やんちゃが過ぎて、

取返しのつかない人もいる。

だが、少なくても、

世の中でいい働きをしている人は、

やんちゃだった時代もあったように思う。

そう考えると、

やんちゃもそれほどわるくない。

そこで経験したかことが、

その後の人生にとって、

大きな予防線になる。

人は、経験を財産にして生きていく。

経験していないことは対処に困る。

やんちゃしたことは、

その時、大きな経験値になる。

しっかりした大人になるための

礎になるのだ。

心は、もう決まっている

 

(今日のコトバ)

 

心は、もう決めている。

どこへ行くのか。

どこへ行きたいのか。

あとは一歩踏み出す勇気だけだ。

 

 

 

迷っている。

誰かに意見を求める。

あらゆる角度から情報をとる。

様々な状況を調べてみる。

試しに体験してみる。

ジタバタしてみる、、、、。

ただ、迷っているといっても、

本当は心のどこかで答えが出いている。

「自分はこうしたい」

「自分はこうして行きたい」と思っている。

その答えに向かって、

エールが欲しかったり、

いい情報が欲しかったしているだけなのだ。

自分の心は決まっている。

そして、足りないものは、決断だけ。

状況が良ければ、すぐに答えを出すし、

わるければ様子を見て時期を変える。

それだけの違いだと思う。

だとしたら、ほんとうにやりたいことがあるなら、

勇気を出して一歩踏み出す。とにかく前へ出る。

そこに答えがあるのだから、

もうあとはスタートするだけなのだ。

このスタートが遅いために、

失敗することもたくさんある。

もちろん、スタートが早すぎたための失敗もある。

ただ、どうしていもやりたいことがあるなら、

思い切ってスタートをきる。

それこそが迷う時間を減らせるいちばん早い方法。

人生に、生きた時間を増やすための方法なのだ。

育てることは、幸せになること

 

(今日のコトバ)

 

ちいさな夢もあり、

ちっぼけな愛もある。

それを大きくできる人が幸せな人なんだ。

 

 

 

夢とか、愛とか、最終的には、

大きなものになっていくけど、

最初は小さなものではじまる。

人は、時々、小さな時を忘れて、

叶わぬ夢、叶わぬ愛と嘆いてしまう。

忘れてはいないかもしれないが、

結果を急いでしまう。

だが、夢を育てる、愛を育てるという。

育て方によって、

夢や愛が変わることもある。

一気に夢や愛のゴールに

たどり着かないからといって、

あきらめることはない。

時間をかけて、自分流の育て方で、

じっくり育ててみる。

その結果、思った結果とは違っても、

素晴らしい結果になるかもしれない。

新しい感動があるかもしれない。

そして確かにいえることは、

夢や愛に取り組んでいる間は、

人は幸せになれる。

自分の中に温かい何かが生まれる。

夢や愛を育てることは、

自分が幸せになること。

素晴らしい時間を過ごせることなのだ。

 

足りないものを満たす気持ち

 

(今日のコトバ)

 

足りないものがある。

明日、満たそうとするものがある。

それが、生きるということ。

 

 

 

人は、何をモチベーションにするか。

それは、いま自分に足りないものを満たすことを

モチベーションにしているといって過言ではないだろう。

夢や目標もあれば、野望や欲望もある。

食事や趣味もあれば、肉体や技術もある。

それらの足りないものを、

少しずつ、あるいは、一気に満たしたい。

そう思いながら生きているはずだ。

生きていると書いたが、

ただ生きるというなら、

生命を保つことになる。

だが、生きるという意味は、

足りないものを満たすことと

定義する方がわかりやすい。

仮に、足りないものを満たそうという気持ちが

なくなってしまえば、

生きている意味もなくなるだろう。

そう定義すると、

今日、何かを満たしたいと思う

何かがある人は、生きる意味がある。

だからこそ、すべての人に

生きる価値がある、そう思うのだ。

 

 

 

 

 

頑張れる分野は、好きな分野

 

(今日のコトバ)

 

好きなことで前進しないと、

嫌いなことで人生が支配される。

 

 

 

常々思うことだが、

頑張れば人生は好転する。

極端に良くはなくても、

いい方へ進む、いい場所にいけることが多い。

それは、なぜだろうか。

ポイントは、頑張れるという点。

あたりまえといえば、あたりまえだが、

なぜ、頑張れるのかということを考えると、

それは好きなことをやっているからという答えに行きつく。

嫌いなもの、苦手なもの、興味のないものに

頑張ることはしんどいし、難しい。

仮に、頑張っても、どこかで熱くなれなくて、

あきらめてしまうこともある。、

つまり、頑張れるということは、

好きな分野にいることが大切なのだ。

もちろん、好きな分野でなくても、

頑張っている人はいるだろう。

だが、そういう人も、できれば好きな分野で

頑張りたいと思っているはずだ。

また、頑張れる分野にいるということは、

知らず知らずのうちに、

好きなことへ向かって動いている。

なるべく自分のやりた方向へ動いているといっていい。

それが人間であり、それが前進するということなのだ。

そして、好きな方向へ動いていかないで、

なんとく生きている、

あるいは、苦手な分野に巻き込まれて生きると、

頑張れない気持ちになっていく。

簡単なことだが、意識しないと、

人生は様々な状況にのみこまれる。

頑張れる分野とは、好きなことができる場所。

そのことを意識すべきだと思う。