たくさんの幸せに守られている

 

(今日のコトバ)

 

幸せは、

小さなものまで数えると無限にある。

不幸は、

どんなに数えても2つか3つだ。

 

 

生きていると、

幸せと不幸の数を数えることなど

あまりしない。

幸せは数えないが、

不幸だけ数えてしまう人は

いるかもしれない。

ただ、ほんとうに幸せと

不幸の数を数えてみると、

圧倒的に幸せの数が多いことに気づく。

そもそも普通に生活できている人は、

普通の生活の中に

幸せがたくさんつまっている。

楽しい、嬉しい、感動した、

休めた、受かった、昇格した、

入学した、恋をした、夢を見た等、

みな幸せのカテゴリーに入る。

反対に、不幸とは何か。

一人の人が一度にかかえられ不幸なんて、

1つ、2つ、3つあるだろうか?

大病した、失恋した、失敗した、、、、。

様々な不幸はあっても、

同時期に不幸をたくさんかかえることは

あまりない。

だからこそ、

「幸せじゃない」とか、

「幸せが欲しい」とかいう人は、

幸せの数を数えてみたらいい。

案外、たくさんあることに驚くはずだ。

そして、不幸の数も数えたらいい。

不幸は大きいものかもしれないが、

それほど数はない。

人間は、

たくさん不幸の数をかかえて

生きていけない。

つまり、生きている以上、

たくさんの幸せに守られている。

幸せに守られているから、

不幸にも乗り越えられる。

そのことを明解にして生きていけば、

現状の自分の人生が

もっと愛しく思えるはずだ。

 

アンテナという努力以前の気働き

 

(今日のコトバ)

 

その日、その時、

そこにいることを運という。

 

 

 

 

基本的には、

運をつかむことは、

努力の延長線上にあると

思っている。

目標に向かって努力した人が、

やっぱり最後は運をつかんでいる。

だが、一つだけ他力本願で

運を感じさせることがある。

それは、何かの出来事に偶然遭遇すること。

もっというと、出来事の当事者として

そこにいること。

いやがおうでも、

その出来事に対峙しなければならない。

その出来事に絡むうちに、

自然にチャンスが飛び込んでくる。

これだけはどうしようもない気がある。

だが、この偶然の出来事も、

常に、自分のアンテナを張り巡らせ、

出来事をキャッチして、

チャンスをつかんでいるのかもしれない。

そう考えてみると、

アンテナという努力以前の気働きが

チャンスをとらえる可能性がある。

人生は、

矢のようにチャンスが

やってくるわけではない。

だとしたら、アンテナを広げて、

チャンスを見逃さない気働きをする。

大切なことだ。

 

求める意欲

 

(今日のコトバ)

 

ずっと、探し物を探していたい。

つまり、ずっと目標のある人生でいたい。

 

 

目標、と声高に掲げなくても、

自然に何かを求めているのが人生。

大小にかかわりなく、

今日の中で、いますぐに、

明日以降で、、、、何かを求めている。

何でもないよなことだけど、

実は、これが生きるために

とても大事なこと。

何も求めなくなったり、

求めることが少なくなったりすると、

自分自身があまりいい状態ではない。

意欲がなくなっているとも

言い換えられる。

反対にいえば、

生きるために

求めるものが必要ともいえる。

目標ほど大きく掲げなくていいから、

何かを求める、何かを探す。

その意欲を持つために、

自分の中で何か求める意識を持つ。

長い人生を生きていくには、

大切なことだ。

妥協と後悔は血がつながっている

 

(今日のコトバ)

 

妥協とは、

自分が自分の嫌なところを

許すこと。

 

 

 

「こんなものでいいだろうと、

妥協する」

「歩みよって、妥協する」等。

どこかに、

落としどころを見つけて、

意見を調整するために、

妥協がある。

本来の意味は、

そういうことかもしれない。

ただ、普段の生活で妥協を使う時は、

あきらめた気持ちの時に使ってしまう。

それも、あきらめてはいけない時に、

頑張れなくて、

あきらめてしまうのが

妥協なのだ。

難しい問題かもしれないが、

妥協してよくない時は、

たいがい人生の大一番だったりする。

そこで妥協してしまうのは、

自分の弱い部分が出て、

求めていた結果ではないが

終りにする気持ちが働いてしまう。

もちろん、どうにもならなくて

妥協することはあるだろう。

だが、人生の大一番で妥協すると、

絶対に後の人生で後悔する。

後悔しないためにも、

妥協を減らす。

妥協と後悔は血がつながっている。

そこを意識して生きるべきだ。

 

とらわれずに想像する

 

(今日のコトバ)

 

メニューにないものを表現しろ。

マニュアルにないものを想像しろ。

レギュレーションにないものを発想しろ。

まだ見ぬものが人間を進化させていく。

 

 

 

 

世の中のコンプライアンスは、

人を常識的に生きろと規制してくる。

ただ、常識ばかりで生きていては、

つまらない世の中になってしまう。

いい意味で非常識な発想が必要だし、

いい意味で未完成な想像が大切になる。

パソコンが標準装備され、

AIが未来をつくるようになっても、

人間の進化していく想像力は必要だ。

だからこそ、

日々の生活の中で、

想像力を駆使する訓練をする。

マニュアルや

レギュレーションにとらわれず、

自由に絵を描いていく。

そんな意識を常に持つことが

大切な時代だ。

はじめの一歩は、最大の一歩

 

(今日のコトバ)

 

人生においてはじめの一歩は、

最大の冒険である。

 

 

 

何事もはじめることが肝心。

はじめてしまえば、

様々なものが動き出す。

動き出せば、

自然と、勢いで、

前へ、前へ進んでいく。

「はじめの一歩」

たかが一歩、されど一歩。

この一歩は、

目標達成するまでの一歩で

一番大事。

一歩が数百歩、数千歩の価値がある。

もっといえば、はじめの一歩は、

大いなる冒険への一歩でもある。

だからこそ、

大事な一歩。

とにかく一歩踏み出すも良し。

じっくり考えて踏み出すも良し。

ただ、はじめの一歩は、

目標達成へ最大の一歩となる。

そのことを意識して

一歩踏み出そう。

 

 

 

心をあたためる特効薬は、人

 

(今日のコトバ)

 

寒さが身に沁みるたびに、

人はほんとうのあたたかさを

身に着けていく。

 

 

 

東京は、昨日季節外れの20°超え。

半袖でも街を歩ける12月となった。

ただ、これからは少しずつ寒さが本番を迎え、

コートやダウンが必要な気候になっていく。

毎年、この時期になると考えることがある。

寒さが沁みると、

心が冷たくなるな、と。

体が感じる寒さはもちろんだが、

自分の心の冷たさを

どうあたたかくするかも考える。

体に関しては、

防寒具、暖房でなんとかできる。

では、心はどうだろう。

体をあたためるだけでは、

心はあたたかくならない。

どう心をあたためるか?

一番は、

人にあたためてもらうことを

考えるのではないだろうか。

それも、自分の心を

あたためてくれる人と

コミュニケーションをとる。

話すでもいい。

スキンシップでもいい。

食事をするでもいい。

心のあたため方を知っている人と

コミュニケーションをとる。

これが寒い心を、

冷たい心をあたためる最善の策。

それ以外にもいろいろな方法がある。

心をあたためる映画・本・コンサート等の

エンターティンメントとの出会いを求める等。

それもありだ。

だが、一番は心をあたためてくれる人と

どうコミュニケーションをとるか。

そこさえ意識して生きていけば、

心が寒くなった時、

いち早くあたためることができる。

心をあたためる特効薬は、

人なのだ。

飾りではなく、本物を

 

(今日のコトバ)

 

星3つより、

星5つより、

星1つでいい。

数ではない、

輝きの大きさがものをいうのだ。

 

 

 

 

いくら玄関に

賞状やトロフィーの数があっても、

少しも素晴らしいと思わないことがある。

飾っていても、自慢話のキッカケをつくるだけで、

こちらとしては楽しくもなんともない。

反対に、何も飾ってなくても、

その人の技、その人の所作で、

気持ちをよくさせれたり、

素晴らしいと思うことがある。

要は、飾りではなく、本物が大切。

本物を見せられれば、

数はいらない。

何も過去の実績で、

いま大きな顔をする必要はない。

もっというと、

いまがイケてないから、

過去で話をしようとしているように

思えてくる。

つまりは、いま優れたもの、

いま秀でたものを

一つ持っていること。

そこが素晴らしい生き方を

判断する基準になる。

満たないたくさんより、

凄い一つが重要なのだ。

 

自分にとって最大の理解者

 

(今日のコトバ)

 

カユイところに手が届く人と、

イタイところを突く人が同じ人でした。

 

 

 

ちゃんと自分のことを

理解してくれる人って、

どんな人だろう。

優しい人?

厳しい人?

話をよく聞いてくれる人?

甘やかせてくれる人?

いろいろな要素があると思う。

ただ、自分のことを

本気で考えてくれる人は、

ある傾向がある。

ひとつは、カユイところに手が届く人。

こうしてもらいたいと思った時や

困った時に、

してもらいたいことをしてくれる人。

たぶん人数は少ないと思うが、

人生の中で何人かはいるだろう。

もうひとつは、

イタイところを突く人。

自分の弱い部分、ワルイ部分を

ピンポイントで突いてくる人。

ワルモノになりたくないから、

正面きっていう人は

少ないかもしれないが、

こちらも人生で少なからずいる。

この二タイプは、

しっかりと自分のことを

見てくれていないと、

できないことをしてくれる。

わかりやすくいうと、

血縁関係のある人は、

わりと多いかもしれない。

また、血縁関係でなくても

そういう人がいる。

このタイプの人達こそ、

自分にとって最大の理解者だ。

困ってる時に救ってくれる。

ワルイところを注意してくれる。

人生という道を踏み外さないための

道標となってくれる人。

そういう人を大切にすることが、

人生という荒波を乗り越える

大きな武器になる。

忘れてはいけないことだと思う。

生きる意味、生きる価値

 

(今日のコトバ)

 

生きている以上、

もうキミには意味がある。

世界の誰かが生きる意味を

理解してくれている。

 

 

 

人は、必ず誰かとつながって生きている。

一人だ、孤独だといっても、

どこかで、誰かとつながっている。

そのつながっている人とは、

やはりどこかで依存しあっている。

依存というと言葉が適切かわからないが、

支え合っているのは間違いない。

自分も依存し支えてもらっているが、

相手も依存し支えられていると思っている。

ネット社会になり、

日本だけでなく、

見知らぬ国のどこか人と

つながっていることもある。

そう考えると、

自分の生きる意味が

大切であると思えてくる。

自分の生きる価値が

あるものだと思えてくる。

だからこそ、

生きることは素晴らしい。

強く生きている人だとか、

弱々しく生きている人だとか関係ない。

生きていることに意味があり、

価値がある。

そのことは、

どんな時も忘れてはいけない。