心の筋力をつける

 

(今日のコトバ)

 

背負ったものの重さで、心の筋力がついていく。

 

 

 

生きていれば、いろいろなものを背負っていく。

年を重ねるごとに、

社会でのポジションが上がるごとに、

背負うものがある。

目に見えて背負うものもあるが、

大きいのは目に見えないものを背負うこと。

特に、肩書きという呼び名が

変わることによって、背負うものは大きい。

重くなるといってもいい。

その肩書きが、何人も、何十人も、何百人も、

束ねることになる。

簡単に背負うというが、一人の人生でも大変なのに、

何十人、何百人もの人生を背負うのは、

至難の業。

経営者、管理職といわれている人は、

いやがおうでも至難の業を要求される。

それと同時に、

背負うということは人間をタフにする。

いろいろな人の人生を背負うことで、

心の筋肉もつく。

ついた心の筋肉は、生きていく難所で、

大きな力を発揮する。

問題、課題への解決力がつき、

生き抜く策を自ら考えられるようになる。

行動力、発想力、そしてコミュニケーション力も、

知らず知らずについていく。

生きるために、プラスのことが多い。

ただ、あまりにも背負い過ぎると、

心も体も壊れてしまう。

背負うために背中があるように、

心も背負える大きさがある。

そこを忘れてはいけない。

大きいものを背負うなら、

自分の筋力を考えて、

できる限りの大きさを背負う。

さらに大きいものを背負うには、

筋力をつけてからでいい。

自分の背負う力を知りながら生きることが大切だ。

最高の状態まで磨くこと

(今日のコトバ)

 

出会う前に、武器を持て。

 

 

 

準備が大切だ。

その時、

準備不足でチャンスを捉えられなかったら、

まったく意味がない。

その目的にもよるが、

大きければ大きいほど、

準備ができていなければ、

絶対にチャンスは捉えられない。

まぐれもありえないはずだ。

だとしたら、目的という標的をしっかり定めて、

捉える準備をする。

たっぷり時間をかけていい。

自分に捉える能力がなければ、

チャンスはただ通り過ぎるだけ。

準備とは、ものを用意するだけでなく、

持っいてるものを最高の状態にするまで

磨くこと。

磨ききって、自分の武器といえるまでになって、

はじめて準備完了となる。

いま、もし、準備不足だと思うものがあるなら、

まず、目的をはっきりさせて、

それに向けて自分のスキルを磨く。

そのスキルが武器といえるまで磨き続ける。

そして、武器となったら、

チャンスを捉えにいく。

タイミングはあるが、

それからでも決して遅くない。

チャンスは捉えられなければ意味はないのだ。

 

獲り返すという目標

 

(今日のコトバ)

 

忘れものを獲り戻すには、忘れた場所に帰るしかない。

 

 

 

 

「オリンピックの借りは、オリンピックでしか返せない」

オリンピック選手がメダルを逃し、

次のオリンピックへのモチベーションを聞かれた時、

答える言葉がある。

他の大会でいくら金メダルを獲っても気持ちは収まらない。。

オリンピックという同じ大会で頂点に立たなくては、

満足することはできない。

この気持ちは、どんな分野でも同じことがいえる。

何かを獲り返そうと思ったら、

同じ場所で、同じ規模で、

同じ気持ちになれるものだけが、

自分のモチベーションを高めることができる。

目標が明確であればあるほど、

その気持ちは強くなっていく。

特に、リベンジのような状況になれば、

なおのこと、同じ場所で戦いたいと思うはずだ。

いま、自分の人生で目標となるものがないと思っている人は、

何か獲り返したいものはないか考えてみるといい。

どうしても獲り返したいものは、ほんとうにないか。

自分の気持ちが収まらないものはないか。

人生、生きていれば、獲り返したいものの一つや二つあるはずだ。

その獲り返したいものを、自分の目標に設定してみる。

リベンジというのではなく、あくまでも、目標として定めてみる。

自分にとっていい目標になるかもしない、そう思うのだ。

 

 

 

安らげる時間をつくる

 

(今日のコトバ)

 

行きつけの安らぎがあればいい。

 

 

 

 

 

人は、忙しい時間の中で生きている。

時間を拘束される。

日々、試験を受けるような状況で緊張をしいられる。

理不尽な関係にストレスを溜めてしまう。

真面目に取り組むだけでは、どこかが壊れてしまう。

息を抜く時間がどこかにほしいものだ。

ただ、目の前の状況を考えると、

自分が息を抜く時間がもてなくなることもある。

息を抜く時間も、意識してつくらなければ、

忙殺される状況のままではつくることができない。

だからこそ、息を抜く時間がどうしても必要になるのだ。

どうやりくりしてもいい。

多少、強引にでも自分が心から安らげる時間をつくる。

当然、その安らげる時間には、

安らげる場所、そして、安らげる人の存在が必要だ。

安らげる時間、安らげる場所、安らげる人。

この三つが揃った状況が、

常に自分の生活の中にあるようにしておく。

この世知辛く忙しい世の中で、

自分が自分らしく生きる、

煮詰まらないないで生きるには、

安らぎは必須アイテム。

意識して、安らげる状況をつくることで、

自分のペースがつくられる。

忙しいと忘れがちだが、

安らぎは自分でいちばん簡単につくれるもの。

もし、安らげる環境が自分にない人は、

今日からでいい。

安らげる時間をつくる環境をつくる。

自分のペースで生きるために大切なことだ。

 

 

人生というロングラン興行

 

(今日のコトバ)

 

人間は、人生という名の興行を打つ。

 

 

 

人生は、舞台だと思う。

一歩外へ出れば、本能のままで生きることは難しく、

大なり小なり、芝居をして生きなければならない。

外だけでなく、内なる家族とも、

芝居が必要になることもある。

それも、脚本通りの芝居というよりは、

即興芝居ばかりを要求される。

社会とは、そういうものかもしれない。

だが、この芝居が想定通り、予定通り終わる場合と、

想定外、予定外に終わる場合がある。

細かいことで、想定外、予定外はいいが、

大事なことで、予定外、想定外だと、

人生にかかわる一大事になることもある。

一つの言葉、一つの行動、一つの選択、、、、。

一日という日の中で、

人生を左右することもある。

そう考えると、人生は興行のようでもある。

一日という単発の芝居の連続が、

人生というロングランの興行になる。

いま、人生のメリハリがなく、

なんとなく生きている人も、

日々、何か大切なもののために行動している。

生きるために、気づかぬ間に芝居をしている。

大河ドラマのワンシーンを演じている。

そう思うと、一日は貴重な時間になる。

もちろん、毎日が刺激に満ちていて、

イキイキしている人もいるだろう。

その両者とも、人生という大きな興行を打っている。

そのことを忘れずに生きれば、

この一日が愛しくなる。

もっと、前向きに生きていけるはずだ。

 

 

自分を自衛する

 

(今日のコトバ)

 

終わりなき旅の途中だからこそ、

どこかで腰を下ろして命をいたわることも大切なんだ。

 

 

暑い、熱い日が続いている。

まだ、夏休みにもなっていない人が

たくさんいるだろう。

夏バテの人もいるだろう。

熱中症の注意報も毎日発令されている。

「なるべく家から出ず、水分をこまめに補給し、

体を休めてください」と。

気象予報士の夏のお決まりのセリフのような気もするが、

ほんとうは人生においても、

この言葉がとても大切になる。

「体を大切にして、水をとる」

人生は、人間の体は、どこで、

どうやって休んでいいかは自分しかわからない。

会社の休みが自分にとって足りているとも限らない。

どこまで休めば、どこまで水を補給すれば、

自分がほんとうに英気を養えるのか。

病気になって、入院するまでわからない状態はいけない。

自分の中で、どこが痛んでいて、どこが悲鳴を上げているか。

自問自答してみる。

もし、休ませた方がいいものがあれば、

早めに対処する。

会社を休んで、しっかり治すものなのか。

会社は休まなくても、自分の調整で治せるものなのか。

人それぞれあるだろう。

それらを自分で点検し、

自分で警鐘を鳴らし、自分で守る。

自分にとっての自衛も大切なのだ。

この夏だけではなく、無理して生きているすべての人は、

立ち止まって考えてみるといい。

一度、大きな病気をしてしまうと、

その先の人生がしんどくなる。

一つの疾病をかかえて生きるのは簡単なことではない。

自分を自衛する。

そのことを忘れてはいけない。

感情の信号は言葉に出る

 

(今日のコトバ)

 

人は言葉から壊れていく。

そして、人は言葉から整っていく。

 

 

 

 

怒り出すと、言葉から荒れる。

悲しみ出すと、言葉から崩れる。

人は、感情の信号を言葉であらわす生き物だ。

一番わかりやすいのは、怒り出すと、

その人の言葉遣いは別人のようになる。

汚くなくて、まともではないことが良くわかる。

絶対に平常心の時は遣わない言葉を、

感情と共に吐き出してしまう。

そこをコントロールできる人を、

理性のある人というのかもしれないが、

怒ると基本的に言葉は荒れる人が多い。

反対に、怒りがおさまると言葉は整い出す。

人は感情の生き物だから、

感情と共に言葉が変わっても仕方ないのかもしれない。

だが、言葉が感情と共にわかりやすく変わってしまうと、

まわりにいる相手に自分状況を簡単に把握されてしまう。

もちろん、自分の状況を把握してもらいたい時もある。

ただ、戦い場面で、簡単に感情を、

気持ちを、さとられしまっては、

勝負にならない時もある。

自分の感情を知るために、

感情を自分でコントロールできる時は、

その状況を意識して維持すればいい。

自分で感情の状況がわからなくなった時は、

発する言葉で感情の状況を知ればいいのだ。

荒れ始めたら、怒っている。

そこを意識するだけでも、

怒りをコントロールできる。

まずは言葉の乱れに気づくようにしよう。

 

嘘の仮面は剥がされる

 

(今日のコトバ)

 

嘘は瞬発力はあるが、持久力はない。

だんだん化けの皮が剝がれていく。

 

 

 

事実だけで世の中がまわっていくほど、

世の中は甘くない。

時に嘘の情報も、

清濁あわせ飲むように飲みこまなければならない時もある。

ただ、嘘の情報は、最初に速いスピードで伝わることもあるが、

時間とともに、事実に、

仮面を剝がされてしまう。

あたりまえだが、事実は強い。

人生の様々な場面で、事実を伝えてしまっては良くないと判断し、

嘘の情報を流すことはある。

人のためを思って、嘘をつくこともあるはずだ。

だが、この人のためを思った嘘も、

いずれ仮面は剥がれる。

剥がれた時、その嘘が本当に人のためになったかというと、

それほどでもない、もしくは、人のためにならずに、

不快な思いをさせる材料にしかならないこともある。

事実と嘘。難しい問題かもしれない。

その時と場合の問題もある。

その中で嘘の情報は、必ず仮面を剝がされることを、

忘れてはいけない。

最高に幸せな場所

(今日のコトバ)

 

いてもらいたいと言われたら、

どんなに幸せだろう。

 

 

「あなたが必要だ」といわれたら、

どんなに嬉しいだろう。

自分の力を信じてくれている。

自分の能力を高く買ってくれている。

それ以上に自分が信頼されているという気持ちは、

何にも代えがたい最上級の気持ちといっていい。

人生は、信頼関係を築きながら、

自分のフィールドを広げていく。

自分のやりたい方向、自分のやるべき方向を広げるには、

自分がどれだけできるかを証明し、

その結果、信頼を得て道にする。

時間がかかる場合もある。簡単に進まないこともある。

夢が大きければ、困難な状況を進まなければならない。

強い意志も必要になる。

ただ、一つの信頼を築き絆が生まれれば、

アメーバ式に自分の領域が広がることもある。

さらに、信頼の延長戦上で評価を受けると、

指名されることもある。

この指名ほど、人生で強いものはない。

指名されたということは、

自分の方法論を認めてもらったということだ。

自分のやり方で能力を発揮すればいい。

少なくとも、失敗しない限り、誰も文句はいえない。

自分の領域で自由に動ける。

これほど生きていて楽しいものはない。

だから、いま、自分を必要としてくれている環境があるなら

最大限に大切にしよう。

そこが自分のやりたいことができる環境になる。

自由なフィールドにできる。

自分の人生を最高に幸せにできる。

大切にしなければ、いけない環境なのだ。

 

同じ視線と生きる

(今日のコトバ)

 

上から目線でもなく、下から目線でもなく、

同じ目線の人間の言葉に耳を傾けろ。

 

 

 

人の視線は、いろいろな角度から感じる。

時に上から、時に下から感じることがある。

上からの視線には、優越感だったり、圧力だったり、

同じ高さの視線が足りない。

下からの視線には、劣等感だったり、顔色伺いだったり、

同じ高さの視線が足りない。

もちろん、社会の仕組みの中で、上下関係があり、

視線を使い分けなければならない時がある。

だが、上下の視線には、必ず利害関係が発生している。

正しい視線というよりは、

利益の視線、露骨にいえば、自分が得するための視線になっている。

この視線と付き合っていると、自分も利害を考えて生きるようになる。

人は、大なり小なり利害で生きているから仕方ないことでもある。

ただ、この利害ばかりで生きていると、

自分がみすぼらしくなる。ほんとうの自分が見えにくくなる。

その自分の状態を普通に戻すには、

同じ視線の人と時間を共有することが大切だ。

そこに利害関係がなく、なんでも打ち明けられる人と、

様々な話しをする。

内容なんてなくていい。バカ話でいい。

時間を忘れて腹から笑えればなおいい。

この高速社会で失われていく本当の自分を取り戻せる時間をつくる。

それには同じ視線を持っている人が必要なのだ。

いま、生きることが窮屈で、

どうも本当の自分を発揮できていないと思っていたら、

同じ視線で話せる人に会いに行こう。

そこに本当の自分を取り戻すきっかけがある。

自分らしく生きる時間が生まれるはずだ。