実態を知れ

(今日のコトバ)

 

わからないと見失う。

わかってしまうと見損なう。

 

 

 

人は、わかろうとする生き物だ。

自分のまわりでわからないものが

うごめいていると、気になってしかたがない。

様々な方法で、その実態をわかろうとする。

それが、自分に近ければ近いほど、

より詳しく、より具体的に知りたくなる。

ただ、こうもいえる。

わかってしまうと、

途端につまらなくなる。

オモチャにあきた子供のように、

知らん顔する場合もある。

もちろん、自分の興味のあるものには、

深く、広く、知ろうとすることもある。

ただ、実態を知ってしまったら、

あたりまえかもしれないが、

もう関心事ではなくなる。

でも、ほんとうは、

ものごとの実態はわかってからが、

本質に近づいていける。

興味のあるものは、

楽しくて、自然にどこまでも探るだろう。

興味のないものも、実は、自分に近づいてきたものは、

何か意味のあるの。

何もなく、自分の人生のまわりを

ウロチョロしない。

だとしたら、

ある程度、知っておく。

軽く、浅くではなく、

実態がどうであるかを知っておく。

この実態を知ろうとしたものは、

人生の一部、人生の一瞬に交差するもの。

しっかりと自分が理解しておけば、

大きな武器になる可能性がある。

知りたいと欲求があった時、

少しだけ真剣に知りたいものと対峙することも、

人生にとって有益になる。

そのことを忘れてはいけない。

 

自信の眼

 

(今日のコトバ)

 

誰にも似ていない眼を持て。

 

 

何に向かって生きているのか。

人それぞれ目標がある。

その目標を達成するために、

しっかりと前進しているか。

自分が成長しているか。

漠然と目標を持つのではなく、

標的を定めて生きる。

道は険しいかもしれない。

困難が待ち受けているかもしれない。

それでもブレずに進んでいけるか。

意志が大切になる。

意識も大切になる。

そして、タフな行動力がもっとも大切になる。

そのすべてが大切。

目標を定めてブレなくなると、

眼が違ってくる。

一つ一つの困難を乗り切ると、

自信が眼にあらわれてくる。

それこそ、自分だけの眼、

誰にも似ていない眼が人生をつくる。

人生の時間は限られている。

その時間を有効に遣って、

自分の行きたい道を生きる。

そのためには、

誰にも似ていない眼、

ブレない眼、

自分のある眼が必要なのだ。

 

 

上手な時間割

 

(今日のコトバ)

時間遣いの名手は、夢を手元に引き寄せる。

 

 

時間。

誰にでも自由に、

誰にでも平等に与えられることを

約束されたもの。

永遠に前進しか知らないものでもある。

その時間をどう遣うか。

自由なだけにどう遣うかは本人次第。

分刻みでスケジュールを入れるか。

ダラダラと何もせず過ごしてしまうか。

まさに本人の自由だ。

ただ、時間を上手に遣う人は、

ほぼすべて夢を自分に引き寄せている。

目標を着実に達成している。

忙しくしている。段取りがいい。

緩急のつけ方がうまい。

一日の時間割ができている。

習得しようとするものの時間をつくる等。

時に高速で生きたり、

時にしんどい状況に挑んだり、

そして、時にいい休息を入れたり、、、。

時間を有効に遣うのはいうまでもないが、

上手な時間割も考えている。

その人たちは、

なぜ時間を有効に遣うのか。

それは、夢や目標が明快になっているから。

その夢を実現するために、

人生を、時間を、遣っていく。

無駄な時間が無くなっていく。

一分一秒にワクワクしていく。

人生の選択は、自由だ。

どう時間を遣ってもいい。

だが、もっと、時間を有効に遣いたいと思ったら、

夢や目標を持つことだ。

自然に、そして、意識して、

時間を大切に遣うようになる。

どうせなら時間遣いの名手になろう。

 

 

成功は、努力賞

(今日のコトバ)

 

成功は、すべて努力賞である。

 

 

何をもって成功というか難しいけれど、

一つの結果を出したということが

成功というなら、

すべての人は、大なり小なり、

成功を経験してきたはずだ。

自分の人生における目標をたて、

切磋琢磨し達成を目指していく。

そこに困難な課題が立ちふさがり、

挫折する人、乗り越える人がいる。

挫折した人は失敗となり、

乗り越えた人は成功となる。

また、そこには、運の力があり、才能の力もある。

実力以上運が作用して目標を達成する人もいる。

才能があふれていて、

簡単に課題をクリアしてしまう人もある。

ただ、これだけはいえる。

努力をせずに成功することはない、と。

目標に向かって、達成するまでの間の登り道を

登り切らなかった人はいない、と。

当然、目標の大きさによっては、

容易に達成できることもあるだろう。

それでも、努力なくして達成はない。

最近、努力という言葉がはずかしくて

使わないという人が増えているが、

いちばん成功への道にフィットするのは、

努力だと思う。

だからこそ、この言葉、この意識、

この行動を忘れてはいけない。

人生は目標を達成して有意義になる。

そして、その陰には、努力という

人間の頑張りがあるのだ。

 

 

自分は負けていない

(今日のコトバ)

 

世の中、案外、たいしたことのないヤツばかりだ。

 

 

 

 

試験会場や入社式など、

その場にいると、まわりの人間が

賢く、優れて、大きく見える時がある。

とても能力ではかなわないと思う。

このレベルの人間と戦うのしんどそうだと思う。

だが、実際のその人間たちと

コミュニケーションをとるようになると、

案外、たいしたことのない人間が多いことに気づく。

みな緊張して硬い表情をして、あるいは怖い顔をして

威嚇しているから、少しできる人間には見える。

ただ、時間がたつにつれて、いつも通りの人間に戻ると、

なまけ者もいれば、才能を感じられない者もいれば、

やる気がない者もいる。

自分も負けてないと思える瞬間がある。

人に得手不得手があって、

上手に能力を上手に発揮できる分野と

そうでない分野がある。

あるとしたらその差ぐらいだ。

ほんとうの勝負は、

どれぐらいやる気を出して、

どれぐらい頑張れるか、

どれぐらい努力できるかにかかっている。

すべては競い出してからが真価を問われるのだ。

そう考えると、

ファーストインプレッションのできそうな人間は、

それほど心配することはない。

実力以上に優れて見えているだけ。

力さえしっかりつけていけば、

怖れることは何もない。

あせらず、あわてず、まっすぐに、

自分の道を進めばいいのだ。

 

熱量を上げて生きる

(今日のコトバ)

世論に負けない自論を持て。

 

 

とかく流行りに流される。

体制の意見に歩調合せ、

波風立てることを極力嫌う。

ネットの世界以外では、

争い事が少なくなった世の中だ。

マニュアル通りに生き、

コンプライアンスに縛られ、

自分の生き方も、

他の誰かと似ていく。

それでいいと思っている人もいる。

何も罪をおかしているわけではないので、

悪い事と決めつける必要もない。

だが、ちょっとだけ立ち止まって考えてみると、

少々、つまらない世の中になってはいないかと思う。

もっと、主義、主張を強く押し出して、

波紋が起こして争う。

戦争を起こそうというのではない。

ものづくりや仕事の現場で、

自分の思いを込めて行動する。

「憎まれっ子、世にはばかる」でもいい。

何か自分というものを、

どこかに刻む生き方をする。

空気を読みすぎる。

顔色を見すぎる。

結果、自分の色を消してしまう。

そんな人生の時間を過ごしていては、

疲れるし、つまらないと思うのだ。

時代は変わっている。

昔がいい事ばかりではないのはわかっている。

ただ、昔は、もう少し人生を熱くする

争い事があった、また、人も熱かった。

その情熱、その熱量が、

人生そのものを熱くし、おもしろくしたと思う。

だから、もし、

自分のない、無記名な生き方をしているなら、

自分から仕掛けて、

人生の熱量を上げてみる。

それには、まず、自論を懐にいれて、

生きる場所へ参じる。

そこがスタートになるはずだ。

 

 

 

人生、すべて途中経過

(今日のコトバ)

 

戦いは、一瞬じゃない。

一生だ。

 

 

 

 

人生には、勝ち負けがつきものだ。

勝ちがあったり、負けがあったり、

その瞬間、一喜一憂している。

だが、長い人生を続けていると、

この勝ち負けは、人生の無数にあるうちの

一つの出来事であることに気づく。

ここで勝ったから、一生の勝者ではない。

ここで負けたから、一生の敗者ではない。

時に感動を爆発させる、

時に屈辱的な気持ちを抑える、

そんなことを繰り返しながら、

人生という大河ドラマが勝ち負けをのみこんでいく。

そう考えると、人生は終止符を打つまで途中経過。

一喜一憂するなとはいわないが、

ここでの勝ち、ここでの負けは、

取り返すことも、忘れることもできるチャンスがある。

特に、いま、負けたことで傷ついている人は、

必ず過去の出来事にできることを想像しよう。

そして、なるべく早く復活することを考えよう。

人生は、喜怒哀楽を含んだ出来事を

たくさん用意しているのだから。

 

怪物ではない、人間である

(今日のコトバ)

 

怪物は、間近で見たらオモチャでした。

 

 

遠くにいるから、大物に見える。

近くにいると、それほどでもない人物がいる。

個人的な経験でいえば、

大先生と呼ばれたり、大物と呼ばれたりする人も、

近くで仕事をすると、

ほぼ遠くにいた時よりは、

普通の人に見える。

声が大きかったりして威圧はうまいが、

それほど能力は高くない。

一芸に秀でていると思ったが、

まわりの人間が上手に支えている。

狂人のようにふるまっているが、

実は裏の顔をただの寂しがり屋でしかない等々。

生きていると、

天才、スーパーマンのような人が

あらわれることもある。

だが、懐に入ってしまえば、

ただの一人の人間でしかない。

少し変わっていたり、少し強そうだったりするが、

想定を大きく超えてくることはない。

もちろん、プロアスリートやエリートと呼ばれる人で

怪物と思える人もいるだろう。

ただ、そんな人も近くにいれば、

一人の人間でしかない。

怪物ではない、人間なのだ。

そう思うと、

距離をとって怖れる人がいるなら、

思い切って懐に飛び込んでしまえば、

その怖さから逃れるかもしれない。

高圧的というか、パワハラ的というか、

頭からつぶそうとする人がいるかもしれない。

それでも、その人も一人の人間。

人間である以上、たいしたことない部分はある。

そこを見つけて付き合えば何とかなる。

人間と思えば何とかなる。

怪物と対峙するのではない。

人間と対峙すると思えばいいのだ。

 

 

 

「好き」を大切にする人生

(今日のコトバ)

 

好きの背中を永遠に追いかけろ。

 

 

人は、あきてしまう生きものだ。

好きなものでも、愛しているものでも、

どこかで、あきてしまう。

そこから、進歩もなく、成長もなく、

せっかく自分が好きで能力を発揮できるものを

ひとつの自分の流行で終わらせてしまう。

だが、好きではじめたものは、

少なくても、やる気はあるし、才能も向いている。

本格的に優れているかはわからないが、

自分の得意種目になる可能性はある。

自分の武器になる可能性も大いにある。

「好き」、という気持ち。

最初は簡単な気持ちからかもしれない。

なんとなくかもしれない。

だからこそ、大事にすべき「好き」という気持ち。

生きている中で、

気持ちの最先端で好きになってしまったもの。

それは、人生にとってものすごく大きな要因があるはず。

その要因は短期間ではわからないかもしれない。

あるいは、短期間ではうまくいかないかもしれない。

だが、大切なのは、「好き」になった気持ちがあるのだ。

そのことを忘れてはいけない。

昔から、好きこそものの上手なれという言葉がある。

「好き」は、成長させることができれば、

自分を幸せにする有効な武器になる。

「好き」と出会った人生を、

大切にして生きるのだ。

喜びを共有する選択

 

(今日のコトバ)

 

誰かの求めている誰かになることも、

幸せのひとつだ。

 

 

 

自分の生き方がある。自分の道がある。

そして、その先に自分の夢がある。

自分を中心に、自分のために生きる。

人生のほとんどの部分がそうなっている。

そうでない人もいると思うが、

そう思って生きている人は多いはずだ。

ただ、自分ばかりですべてを埋め尽くしても、

可能性が広がらない場合がある。

あるいは幸せが何かわからない場合もある。

自分だけで完結するものでは限界がある。

そう思うと、自分ではない誰かのために生きてみることも、

一つの選択肢になる。

誰かが困っていることに対して、

自分の力を存分に発揮して助けてみる。

誰かという相手は、感謝してくれる、

喜んでくれる、笑顔になる。

その気持ちが自分も共有できる。

自分が自分のために頑張って生きることとは、

また別の感動がある。

さらにいえば、一人で喜ぶのではない、

誰かと一緒に喜べることは、

倍以上の喜びになる可能性がある。

もちろん、何も関係ない誰かを助けるのではなく、

同じ方向を向いている人や同じ目標を持っている人を

自分の力で助けてみる。

そこに発生する喜びは格別のものがあるはずだ。

人の幸せは、ほぼ人との関係のなかで生まれる。

だとすれば、誰かを助けて、

誰かが喜び、自分も喜べる。

人生には、そんな選択もあっていいはずだ。