気持ちを一つに

 

(今日のコトバ)

 

戦いは、

手を抜いた者から

足手まといになる。

 

 

 

 

チームプレイをしていると、

一人の怠慢プレイがチーム全体を

散漫にしてしまうことがある。

大勢の中のたった一人なのだが、

そのやる気のなさが

敗北や失敗の原因になってしまう。

怠慢という病が伝染し、

ゆるみ過ぎた空気がチーム全体を支配する。

結果、チーム力は低下してしまう。

チームプレイは、

個々の実力以上に、

全員の気持ちが大きく左右する。

一つの怠慢、一つのゆるみ、一つのいい加減が、

大きな落し穴になる。

だからこそ、

チームで戦う場合は意思統一が大切。

もっというと気持ちを

一つにすることが大切。

低いモチベーションでなく、

目標の下、

なるべく高いモチベーションで一致する

メンバーを集める。

強いチームは、その気持ちのレベルが

間違いなく一致している。

「気持ちを一つにすること」

チームをつくる上で、

意識しておくべきことだ。

 

人生はそこで終わらない

 

(今日のコトバ)

 

人は前へ進むように出来ている。

ここで終わりでないことを知っている。

 

 

 

 

どんなに敗北をしても、

どんなに失敗をしても、

人生はそこで終わらない。

上手くいかなかったからといって、

時が止まることはない。

まだまだ人生は途中。

これから、様々なことがある。

いいことも、わるいことも。

それが人生。

だからこそ、想定外のことが起こっても、

一喜一憂しないで生きる。

起こっていることが途中経過だと思えば、

平常心が保たれる。

生きるためのペースがつくれる。

自分のためのペース、

つまりマイペースができれば、

地に足をつけて、

しっかり生きられる。

いま起きていることは、

すべて途中経過。

そのことを忘れてはいけない。

 

新人忘るべからず

 

(今日のコトバ)

 

いつも心が新人である人は、

どこへ行っても可愛がられる。

 

 

 

自分が快適な環境に置かれるために、

何をしたらいいだろう。

結論からいうと、

可愛がられることが必須だと思う。

可愛がられると、

嫌がらせやイジメられることもないし、

相手も胸襟を開いて、

物事を教えてくれる。

場合によっては、

笑いながら技を

教えてくれることもある。

反対に、嫌われると、

嫌がらせやイジメの原因なったり、

無視されたりして、

物事を伝授されないこともある。

場合によっては、

はじめから不愉快な顔をして、

相手にしてくれないこともある。

では、可愛がられるには、

どうしたらいいだろう。

できる方法が一つある。

誰にでも、いつでも、

新人のようにふるまうこと。

新人はまだ要領がわからないから、

何でも素直に訊き、素直に行動する。

さらには、笑顔も忘れない。

新人のようであれば、

まわりの人は、

何でも優しく伝えようとしてくれる。

これこそが可愛がられる秘策。

「初心忘るべからず」

という言葉では足りない。

「新人忘るべからず」

という気持ちを意識する。

年齢を重ねても、

新人のように謙虚で

笑顔忘れない。

そして、フットワークよく行動する。

それが、社会の中で

可愛がられる最良の方法だ。

 

本番と準備は連動している

 

(今日のコトバ)

 

準備とは、

本番以外のすべての時間をさす。

 

 

 

どこまでが準備になるだろう。

切磋琢磨して、

怠りなく用意をして、

心身を落ち着かせ、

本番に臨む。

そのすべてが準備といっていいだろう。

本番に向けて意識した段階から

準備は始まっている。

準備としての行動をとることは

もちろん準備だし、

頭で考えることも準備だ。

だが、

準備をしているのに、

時間が足りなかったり、

用意ができなかったり、

準備調整がうまくいかない時がある。

この準備調整がいかないと、

本番もうまくいかない。

だからこそ人は、

「いい準備をしたい」というのだ。

本番と準備は表舞台と裏舞台。

結果という目標に連動して動いていく。

いい本番にしたかったら、

いい準備をする。

あたりまえだが、

その連動をはじめから意識して動く。

結果を出すために大切な条件だ。

 

耳を貸して、知恵を与える

 

(今日のコトバ)

 

お金を貸してくれる人より、

耳を貸してくれる人を大切に。

 

 

 

金の貸し借り。

遠い昔からいわれていることだか、

貸すことも、借りることも、

結果、いい方へは向かわない。

人間関係に金がかかわると、

どちらとも被害者意識を起こす。

貸した被害者意識、

借りた被害者意識。

貸した被害者はわかるが、

借りた被害者という人も現れる。

借りておきながら、

「貸したお前がわるい」と

借りたことを忘れてしまう人。

だとすると、

貸した人は人間関係が継続できなくなる。

そう思うと、人は、

金を貸し借りする関係に

なってはいけない。

もし、貸すとしたら、耳を貸して、

知恵を与える。

借りようとしている人が、

道を間違わないように

知恵を与える。

もちろん、借りるという状況を

つくってしまうこと自体、

人間関係を壊してしてまう

要因でもある。

ただ、どうしてもという時、

金を貸すのではなく

耳を貸す。

それこそが人間の知恵だ。

 

人間は、一生完成しない

 

(今日のコトバ)

 

人間は、成長する不良品である。

 

 

 

人間は、

朽ち果てるまで完成しない。

いつの人生も何かが欠けている。

それでいながら、

大人になって仕事をすると、

一人前に扱われる。

一人前に扱われると、

出来不出来に関係なく

プロのふるまいをする。

だが、人間に完璧はない。

どこか足りなくて、

足りない部分を埋めようとして

生きている。

それは命が燃え尽きるまで続くこと。

つまり、人間が、自分が、

不良品であることを自覚し、

欠けているものがあることを

理解して生きていくことが大切。

欠けた部分を、

誰かに、何かに、

支えてもらって生きている。

そのことを忘れてはいけない。

 

 

無謀という熱気

 

(今日のコトバ)

 

魂のどこかで無謀を飼っている者が、

ど偉いことをやってしまうのだ。

 

 

 

 

まわりを見て、

ど偉いことをやってしまう人がいる。

才能はある。

努力もしている。

だが、それだけではない何かを感じる。

それは、無謀な気持ちを

持っているということ。

どこかから、

常道を逸して目標へ向かう。

狂人的というか、暴力的というか。

常識からは外れた非常識で

直進していく。

その原因が、人格なのか、

ハングリーなのかわからない。

ただ、言葉にすると無謀を持っている。

そして、目指す目標には無謀でなければ

到達しないことも知っている。

生物学とか、医学では解明できない

無謀という熱気。

それを持った者が、

大きな仕事を成し遂げる。

誰にでもあるようで、

選ばれた人にしかない気もする無謀。

いつかその正体を知りたいと思う。

目的が射程距離にある

 

(今日のコトバ)

 

とどかなかった一手が、

とどかなかった一撃が、

とどかなかった一瞬が、

夢までの距離を教えてくれるのだ。

 

 

 

 

ギリギリでとどかなかった。

接戦だが惜敗した。

後一歩足りなかった、、、、。

もう少しで目的を果たせそうだが、

ダメだった時があると思う。

悔しい。腹が立つ。

意気消沈することもあるだろう。

ただ、「もう少し」というところまで

いった時、確実に

目的は射程距離に入ったはずだ。

簡単に負けたり、

何かわからないうちに

失敗したのではない。

確実に目的の背中を捕まえかけたのだ。

足りないものも見えたはず。

後どれぐらい研鑽すれば、

目的を達成できるか見えたはずだ。

そこで、

後ひと踏ん張りできるかどうか。

できる人は目的を達成し、

できない人は目的達成までの距離が

また開いてしまう。

目的までの距離がわかったら、

一気呵成に攻める。

人生の勝負所に全力を尽くすのだ。

 

 

 

いんちきは逃げきれない

 

(今日のコトバ)

 

落ち着け。

反則されて獲られた得点は、

必ず後半に獲り返せる。

神様はいんちきを許さない。

 

 

 

 

スポーツの試合で感じる。

相手の反則が見逃され得点しても、

必ず味方には、その得点と同じだけの

チャンスがくると。

サッカーの試合などはわかりやすい。

あきらかにPKの反則なのに、

レフリーが見逃してしまう。

当然、PKを獲った側は不信に思う。

怒りが爆発する人もいる。

だが、ここで、怒って

自分がコントロールできなくなったら

負けだ。

この後の試合中で、

そのPKと同じだけの

チャンスが巡ってくる。

それが必ずといっていいほど、

やってくる。

もう神様が配剤したとしか

思えないのだが、やってくる。

人間は、いんちきをしても、

後で必ずバレるという教訓のようでもある。

だからこそ、

相手のいんちき・反則に

惑わされてはいけない。

自分に、味方に、

同じだけのチャンスが巡ってくる。

怒らず、冷静に。

自分の仕事に集中すればいいのだ。

勝敗では語れないドラマ

 

(今日のコトバ)

 

攻めながら負けることもある。

守りながら勝つこともある。

人生は、勝敗だけでは

描ききれない記録がある。

 

 

 

 

「勝ちに等しい負けだった」とか、

「負けに等しい勝ちだった」とか。

試合の中で時々使われる言葉だ。

確かに、試合で勝敗の軍配だけでは

決められない心の記録がある。

同じように人生にも、

勝ちのような負け、

負けのような勝ちがある。

ほとんどの人生は、

勝ち負けの軍配だけで語れない

ドラマをかかえている。

「どれほど努力したか。

みんな知っている。負けたけれど、

誰も咎められない。

もしかすると、この負けをバネに

次は勝つかもしれない。

その勝つまでのドラマが見たい」

というストーリーが周りの人に芽生える。

勝ち負けではない価値が生まれるのだ。

記録の裏にあるドラマが

記憶の大きな比重を占めていく。

そして、人生は、勝敗では語れない

ドラマをつくり上げ前進していく。

だからこそ、人生は素晴らしいのだ。