いい人でない時間を生きる

 

(今日のコトバ)

 

いい人というレッテルを貼られて、

いい人を期待通り演じていると、

いい人も有給休暇をとりたくなります。

 

 

 

どこにでも一人ぐらいいるだろう、

いい人といわれる人。

ものわかりが良くて、

基本的に怒らなくて、

笑顔に近い表情でいる。

まわりから、

「いい人だからなぁ」と

いわれている人。

ただ、そんないい人も、

知らず知らずのうちに

いい人を演じてしまっていることもある。

そこまで怒らないではいられないけど、

あえて怒らずにいる。

そこまで笑っていられないけど、

あえて笑っている。

まわりからのいい人というレッテルを

演じてしまっている。

だが、そんないい人も

どこかの沸点に達すると、

突然キレたりする。

まわりのいい人という眼に

自分が合わせていって、

本当の自分と乖離したいい人という

自分を演じてしまっているのだ。

そう思うと、

いい人にも限界がある。

あまりに自分でいい人を演じている人も、

まわりでいい人といわれるっている人も、

必要以上に、

いい人というレッテルを

貼り過ぎないようにする。

もっといえば、

いい人といわれた自分にも、

ちゃんと休みをあげる。

いい人ばかりではない自分を

さらけ出していい。

人は、いい人ばかりでは

生きていけない。

時に、本当の自分で生きていく。

長い人生を生きるには、

大切なことだ。

 

まっすぐの信念のために、大切なことがある

 

(今日のコトバ)

 

道をまっすぐ歩くことは大切。

同じように、どこかに

逃げ道をつくることも大切。

それは、自分にも、相手にも、だ。

 

 

 

一つの信念を貫くことは、

人生にとってとても大きい。

信念を貫ける人は凄い能力の持ち主だし、

素晴らしい人生をおくっている思う。

ただ、人生は一筋縄ではいかない。

まっすぐに信念を貫くだけで

生きることはできない。

時に、休んだり、

時に、曲がってみたり、

そして、

時に逃げてみたりすることも大切。

まっすぐの信念は、

まっすぐ突き進むだけではない。

いろいろな動きの中で前進していく。

そのためにいろいろな手法を使って

信念を貫く。

常に、信念を貫くだけでは生きていけない。

そこを理解して生きることが大切なのだ。

得意分野を見極めて力を発揮する

 

(今日のコトバ)

 

何も持っていない人はいない。

だが、自分の持っていないものが必要な

舞台に上がって、

オロオロしている人がいる。

せっかく部隊に上がるなら、

自分の持っているものが

使える舞台に上がれ。

 

 

 

人には、

得意不得意がある。

何かの成果を上げたい時、

あたりまえだが

得意分野で勝負できた方が

有利な戦いができる。

だが、世の中の人を見渡すと、

得意ではないところで

戦っている人が多い。

得意ではないというより、

得意不得意を見極めずに

戦っている人が多い。

見極めずに戦っていると、

勝てるものも勝てないし、

必要以上の苦労をすることになる。

もちろん、苦労した結果、

得るものもある。

ただ、できれば、

得意な能力を使って、

戦いに勝利したい。

それには、

自分の得意な力を発揮できる

分野で勝負することを

忘れてはならない。

分野を見極めて、

実力を最大限に発揮する。

分野の見極めから

戦いは始まっているのだ。

 

クセを自分のブランドに

 

(今日のコトバ)

 

クセは、自分が思うほど

嫌われ者じゃない。

かわいがられたり、

愛されたりすることもある。

ならば、自分のキャラとして

ブランドにしてもいいじゃないか。

 

 

 

クセというと

自分の短所のように

思い悩んでいる人がいる。

クセにも

いろいろなものがあって、

一概にいえないが、

一言いえるのは、

人は自分が思っているほど

クセを嫌っていないということ。

性格からくるクセは、

むしろ、面白がったり、

かわいがったり、

コミュニケーションのひとつとして

優れた機能を発揮している。

クセが、その人の

ブランドになっていることもある。

そう考えると、

クセを自分の大切なツールにしたり、

コンテンツにしてもいい。

自分のことが

面白がられたり、

かわいがわれたり、

愛されたりするなら、

こんなにいいものもない。

自分のクセを

もう一度見直してみよう。

もしかすると、

想像より優れた

自分の機能を

忘れているかもしれない。

見直してみよう。

後輩は成長していく

 

(今日のコトバ)

 

後輩は、いつまでも後方にいない。

先輩の前へ出て、

大きく引き離していく翼を

育てている。

その翼はいつか実力となって、

先輩の遥か彼方に飛んでいく。

 

 

 

「いつまでも後輩と思うな」

そういわれたこと、

そういったこと、両方ともにある。

年次が下だから、

自分よりすべてにおいて下に

見てしまう。

何かが欠けていると思ってしまう。

だが、人は成長する。

後輩と思った人間も

キャリアを積むと、

着実に力をつけてくる。

当然、先輩だった自分を追い越して、

圧倒的な力を見せつけることもある。

そのことをちゃんと受け入れられることも、

先輩としては必要。

もちろん、高い壁となって、

後輩の目標になることも大切だが、

追い抜かれることはたくさんある。

その時、年次だけが先輩だからと、

道を通せんぼしてはいけない。

みんなわかっているが、

どこかで、無意識に

通せんぼしている時がある。

そうならないように生きるのも

先輩の大きな役目だ。

「いましかできないもの」に全力を

 

(今日のコトバ)

 

キミのまぶしさが消えないうちに、

人生の頂に駆け上がれ。

 

 

人生には旬がある。

いま、ここでやり遂げることが、

最適という時がある。

特に、若さを必要とするものは、

その瞬間を逃さずに、

全力疾走するべきだ。

「はじめるのに遅いことはない」と

いうが、すべてにあてはまることではない。

どうしたって、若くなければ

どうにもならないこともある。

そう考えると、

特に、いまの自分が

全力で取り組むことによって

手に入れることのできる成功があるなら、

全力で取り組むべきだ。

このチャンスを逃したら、

次、いつ来るかわからないし、

若さがなければどうにもならなく

なるかもしれない。

それが、人生の旬なのだ。

旬といっても、

種目が変われば、

若さが関係ないものも

たくさんある。

ただ、「いましかできないもの」は、

絶対ある。

その「いましかできないもの」に

全力で取り組む。

それが人生の旬を活かすということだ。

涙は、気持ちよく生きるためにあるもの

 

(今日のコトバ)

 

涙のいいところは、

心という見えないものを、

もう一度、

正常な状態に戻してくれること。

 

 

 

涙を流すと、

スッキリとする。

心にある老廃物を流すかのように、

爽快な気分になる。

そして、混乱していた心が

正しいポジションに戻る気がする。

すべて気持ちの問題なので、

正しい作用が断定できないが、

やっぱり、しっかり涙を流せると、

心は落ち着く。

だからこそ、

泣くことを大切にしたい。

人は強がって泣くことを隠すことがある。

隠すことも時に大切だが、

隠し続けると

自分が痛んでくる。

涙を流すだけで、

自分の気持ちが楽になるなら、

泣いていい。

自分が生きるために

泣いていい。

生きるために、

きちんと泣く。

涙は、気持ちよく

生きるためにあるのだ。

力づくより対話

 

(今日のコトバ)

 

心の扉を開くのは、

腕力でなく言葉の力。

それも強く、乱暴な言葉ではなく、

優しく、温かい言葉だと、

心の扉は空けやすくなる。

 

 

 

「北風と太陽」の話ではないが、

力づくで何かをさせようとするより、

優しさで何かをさせることの方が

有効なことがある。

例えば、腕力や強制力で

人を動かそうと思っても

うまくはいかない。

仮に、力づくで一度動かせても、

その後続けさせるのは難しい。

人を動かすには、

本来、本人の納得が必要だ。

できるだけ冷静に、

温かい気持ちで、

心を開くようにやさしく話す。

本人が理解するように話す。

少し時間がかかっても、

本人が納得するカタチを探る。

そこで理解させられれば、

人は納得して動く。

「力づくより対話」

人に動いてもらいたい時、

そのことを念頭にこう。

 

 

 

他人が痛みの基準をつくらない

 

(今日のコトバ)

 

人それぞれの持っている

「痛み」は、

どれほどのものかわからない。

勝ってに他人の「痛み」の

診断書をつくってはいけない。

 

 

 

痛みをかかえている人がいる。

時に大げさに見えたり、

時にたいしたことがないように見える。

ただ、あくまでも見た目のイメージ。

本人でないから、

本当の痛みはわからない。

それを、

「痛くない、痛くない」とか、

「大丈夫、大丈夫」とか、

「大げさだ」とかいってしまう。

痛さを決めるのは本人なのに、

まわりの第三者が決めてしまう。

本人と第三者では、

あたりまえだが

痛さは違う。

自分が痛みをかかえた時、

他人に痛みを決められたくないと

思ったはず。

そのことを忘れてはいけない。

できることは、

痛みをかかえている本人の

気持ちを尊重し、

寄り添ってあげる。

決して、

第三者が痛みの基準をつくらない。

痛みは本人しかわからないのだ。

普通の時間も、特別な時間も大切

 

(今日のコトバ)

 

普通の生活の中で欲しいのは

「特別」だけど、

特別な生活の中で欲しいのは、

「普通」でした。

 

 

 

 

平凡な毎日が続いている。

そんな暮らしをしていると、

特別なサプライズが

ないだろうかと思う。

なかなか特別なことはないし、

ないからこそサプライズは価値がある。

ただ、特別なサプライズは

いつも心のどこかで欲しいと思っている。

反対に、いい意味でもワルい意味でも

特別な日が続くと、

特別なことにはあきて、

普通の日々に憧れる。

刺激がなくても、

退屈でもいいから、

平穏な時間が欲しいと思う。

人はないものねだりをする生きもの。

普通ばかりでは、普通にあきるし、

特別ばかりでは、特別に疲れる。

そう思うと、

普通の時間を過ごしている自分は

心が安定して幸せだし、

特別な時間を過ごしている自分も

刺激があって幸せだ。

もちろん、不幸だって

あるかもしれない。

ただ、大きくまとめると幸せといえる。

そう感じて生きていいのではないだろうか。